人は人皆自らを万物の霊長と信じているが、如何なる者を人といい、人と禽獣の違いはどこにあるのか。渋沢先生は、以下のように説かれています。
昔、欧州のある国王が、人類天然の言語は如何なるものであるかを知りたいと思って、二人の嬰児を一室に収容し、人間の言語を少しも聞かせないようにして、なんらの教育も与えずにおき、成長の後、連れ出してみたが、二人とも少しも人間らしい言語を発することができず、ただ獣のような不明瞭な音を発するのみであったと言う。
これは、事実か否かは知らないが、人間と禽獣との相違は、極めて僅少に過ぎぬということは、この一話によっても解るのである。四肢五体具足して人間の形を成しておるからとて、われわれはこれをもって、ただちに人なりと言うことはできぬのである。人の禽獣に異なる所は、徳を修め、智を啓(ひら)き、世に有益なる貢献をなし得るに至って、初めてそれが真人と認めらるるのである。
姿形が人であっても、人は人たりえない。人としての真価は、その富貴功名に属する成敗を二の次として、よくその人の世に尽くしたる精神と効果とによって、あらわれてくるとも言い換えています。
果して自分は、この世の中に貢献できているのか?貢献できるうる人となるため努力をしているのか?基礎となる人格を磨き、少しでも社会貢献できるような人間になりたいと改めて思いました。
昔、欧州のある国王が、人類天然の言語は如何なるものであるかを知りたいと思って、二人の嬰児を一室に収容し、人間の言語を少しも聞かせないようにして、なんらの教育も与えずにおき、成長の後、連れ出してみたが、二人とも少しも人間らしい言語を発することができず、ただ獣のような不明瞭な音を発するのみであったと言う。