107・108・109、本性と軀殻(くかく)
ここでは、人の本性は善であることを知ろうとするなら、
何故に人が悪をなすかを究める必要があると説いています。
人が悪をなすのは、果たして何のためであるか。
耳目鼻口四肢のためではあるまいか。
耳や目があるから、音楽や女色に溺れ、鼻や口があるから、
匂いや味に耽り、また手や足があるから、安逸を貪ろうとする。
これらは皆、悪が起こる原因となるところである。
もし、耳目鼻口四肢を体から取り去って、
一塊の血肉としたならば、この人は果してどんな悪をなすだろうか。
人間の本性は天にうけ、身体は地からうけたものである。
天は、形もなく、自由自在に通じることができるから善の一つで押し通せる。
地は色々入り混じって形があるから制限がある。
だから、時には善、時には悪となるというように、善悪を兼ねている。
この地はその活力を天にうけて、その地の地たる働きをするもので、
風雨を起こして、万物を生じる。
しかし、時には風雨は物を破損することもあるから、善悪を兼ねている。
しかし、その悪は、真からの悪ではなく、
ただ活力の過ぎるか及ばないかによるものである。
本性が善であるということと、身体が善悪を兼ね備えているというのも、
同じだと一斎先生は言います。
本性は善であっても、身体がなければ、その善を行うことは出来ません。
身体を設けたのは、もともと心に使われて、善をさせるためであります。
ただ、その心も一度身体の中に滞ると、善もなすが、時には行き過ぎたり、
及ばなかったりして、悪に流れることもある。
このように、一斎先生は、儒教の性善説に則って説明しています。
行き過ぎず、及ばな過ぎず、中庸というものが重要なのだと解釈しました。
天地自然のバランスを身体全体で受け止め、その中庸というものを体得し、
中庸に則り生活できたらどれほど素晴らしいことだろうと思います。
そんな状態に少しでも近づけるよう柔軟な心を持って、
日々研鑽していきたいと思いました。