孔子が求めたのは古聖人の道を忠実に祖述することでした。
孔子自身は、自分の道に創意は一切無いと門徒たちに説明しました。
古聖人の道は完全無欠だから、ただこれを信じ、ただこれを好み、
そしてそのままに世に伝えてさえいけばよいと。
ある門徒は言いました。
「私どもは、先生の教えが、単に古聖人の祖述であるとは信じたくありません。
それは先生のご謙遜ではありませんか。第一、もし古いものを伝えていくだけが
人間の道だとしますと、世の中には何の進歩もないわけであります。
だからこそ、殷の湯王の盤の銘にも「まことに日に新たに、日々に新たに、
日にまた新たなり」とあるではありませんか。私どもは、いくたびとなくその言葉を
先生に教えていただいたと記憶していますが…」
孔子はこれを聞いて、微笑し、言いました。
「お前の言うことは、まるで見当違いじゃ。
古聖人の道をこの山(泰山)にたとえてみよう。
お互いにこの泰山の頂をきわめないで、一寸一分でもそれを高くすることが
できると思うのか。聖人の道にただ一つでも創意を加えようとするには、
まず古聖人の道を完全に理解しなければならない。
頭で理解しただけではいかぬ。
心で、からだで、つまり実践の道において自由自在に自分のものと
しなければならない。わしは今日までそれを努めてきたのじゃ。
努めてきた結果、いよいよ古聖人の道の完全無欠なことに驚くばかりじゃ。
お前は、世の中の進歩を望んでいるようじゃが、世の中を進歩させるには、
まずお前自身が進歩するのが、一番の近道じゃ。どうじゃ、
古聖人の道がほうとうにわかったかの。古聖人以上の道をわしに求めるほどに、
お前自身の準備はもう整ったかの。もしまだ整っていないとすれば、
湯王の盤の銘にあるように、毎日自分の垢を落として、日に日に新たになることじゃ。」
と。。。
山を一寸一分でも高くするという例えが非常に分りやすい教訓でした。
創意、オリジナルというものは、山の頂に立たずして得うるものはありません。
また、世の中の進歩発展も、まずは己の進歩発展からです。
新しい何かを求める前に、すでに存在する完全無欠の道をどれだけ歩めるか。
日々の生活に反省する点が多すぎて、ちっとも進んでいる気がしない2010年初。
論語には、「巧言令色鮮なし仁」とか「剛毅木訥、仁に近し」など非常にわかりやすい言葉もある反面、歴史背景、そのときの状況などがわからないと意味が理解できないところもしばしばあります。
例えば、次の憲問篇の言葉は断片的で意味が少しわかりづらいです。
子、磬(けい)を衛に撃(う)つ。
簣(あじか)を荷ないて孔氏の門を過ぐる者あり。
曰わく、心あるかな、磬を撃つこと。
既にして曰わく、鄙(いやし)きかな、コウコウ乎(こ)たり。
己れを知ること莫(な)くんば、斯れ已(や)まんのみ、深ければ勵(れい)し、浅ければ掲す。
子の曰わく、果なるかな。
難(かた)きこと末(な)きなり。
先生が衛の都で磬をたたいておられたとき、もっこを担いで孔家の戸口を通り過ぎる者がいてこう云った、「心がこもっているね、この磬のたたき方は。」
しばらく経つとまた言った、「俗っぽいね。こちこちの音だぞ。自分のことを分かってもらえなければ、そのまま止めるだけのことさ。『深い川なら着物を脱ぐし、浅い川ならすそからげ』だよ。」
先生は言われた、「思いきりが善いね。だが難しいことじゃないよ。」
これは、通常の訳ですが、訳を読んでも意味がわかりづらいので、簡単に背景を説明します。
孔子は自分の理想の政治を行える国を探して諸国を放浪している過程で衛の国にいました。
しかし、衛の国の王様は孔子を形だけの家臣として迎えようとしていて、全く理想の政治には関心がありません。
そんな王様や衛の国に嘆いて、磬(けい)という石でできた楽器をたたいていました。
その音に、もっこを担いだ百姓姿のひとりの男が反応して上記のようなことを言いました。
男は、その楽器の音から、孔子は、自分を知ってくれる者がいないと嘆いていることがわかったのです。
男は陰士。山に篭って瞑想をしている世捨て人です。
「わしに添いたきゃ、渡っておじゃれ、水が深けりゃ、腰まで濡れて、浅けりゃ、ちょいと、小褄をとって。惚れなきゃ、そなたの気ままよ。」と歌いました。
つまり、わかってくれる人がいなければ、諦めればいいだけだということです。
孔子は男を「思い切りのいい人だ。」と言いました。
そして、「一身を潔くするというだけのことなら、たいして難しいことではない。難しいのは天下と共に潔くなることだ。」と最後に言いました。
ここまでくると、なるほど。と思います。
たしかに一身において潔くなることは難しくありません。
しかし、それでは潔のよい「諦め」です。
そうではなくて、天下と共に潔くなる。
言い換えれば、「天意のままに生きる」ということになるのでしょうか。。。
その意味する深さははかりかねますが、冒頭の短い言葉だけだと、言わんとするところが伝わりづらいです。
しかし、背景などを知って、また論語を読むと非常に人間味溢れた孔子や門徒の息遣いが聞こえてきます。
下村湖人の論語物語は、論語の一歩を奥を楽しめるストーリーが満載です。
入門書としてもオススメできますし、論語を一通り読んだ後だと尚楽しめる本です。
今年は、論語を表面だけ楽しむのではなく、もう一歩踏み込んで楽しめたらと思います。
今年は論語はじめ儒教に関する本を多少読みましたが、群を抜いて面白かった、分りやすかったのが下村湖人先生の論語物語でした。
論語に出てくる孔子や孔子の門徒達を登場人物として、論語に書かれた教訓を物語風の短編小説にして描いています。
よく、論語読みの論語知らず。ということが言われますが、論語の教訓は門徒それぞれの性格や個性に応じて孔子が言われたことでありますので、それぞれ門徒自身のことも合わせて考慮する必要があります。
その点、下村先生の論語物語は門徒の性格や個性が滲み出たストーリーになっており、そのストーリーの流れの節々で孔子や高弟から教訓が語られます。
この教訓は、こんな流れの中から出てきたものだったかもしれないと考えることは非常に楽しいものでした。
楽しい物語ではありますが、ただ「楽しかった」ということではなく、登場してくる不完全な門徒と自分を重ね合わせ、それぞれのシチュエーションで同じような過ちをするであろう自分を戒めていきたいと思います。
今年は冒頭でも述べたように、多少本を読みましたが、そんな自分に良い教訓があったので最後にそれをもって締めくくりたいと思います。
前略「子路などは、その点では非常に感心なところがあって、一つの善言を聞いて、まだそれを実行することができないうちは、他の善言を聞くことを恐れるといった具合じゃ。真に道を求める者は、そのくらいの真面目さがあっていい、と私は思っている。」
(子路聞くことありて、未だこれを行うこと能わずんば、唯聞くことあらんことを恐る。)
今年は自分のキャパをはるかに超えた善言を聞いてきました。
知りて行なわざるは、ただこれ未だ知らざるなり。
一つ一つの善言を確実にものにしていくべく、来年は「実行」の一年にしたいと思います。