人と話をするとき、どうしても空気や会話に無意識に反応してしまうことがあります。
無言の状態や気まずい空気というのがあまり好きではないので、その状態を作らないように努力してきた結果が無意識で何かを喋るという状態になったのではと思います。
しかし、無意識で出てくる言葉というのは、必ずしも適当なものではなかったりします。
会話に限っては一日に何度も振り返る習慣がありますが、決まって「微妙なことを言ってしまった」と思う言葉というのは、無意識で出てしまったときの言葉が多かったりします。
あるいは、あまり好ましくない(人の悪口ではないが、噂話や人の批評など)話しを相手の調子に合わせて、続けてしまうことなど、どうしても目の前の相手を優先してしまう傾向があります。
これは、非常に良くないなと思います。
言葉はもっともっと慎重に選ばなければなりません。
相槌などの反応はしても、言葉として反応することを慎み、よく考えて喋るように心掛けていきたいと思います。
この件で、フィードバックを頂いたので紹介します。
私も気を付けていることの一つです。
かの王貞治氏は誰のときも軽々しく相槌を打ったり、ましてや合わせて偽口を使うことはけっしてないと、かつての盟友張本氏が言っていました。
私のような流れ者は、いち早くとけこもうと、至る所で判らないことでも相槌を打ってしまいがちです。
しかし、それで得た信頼関係などは薄氷のもので、いざ渡ろうとすると見えていた対岸さえも消えていることが多々あります。
確かに毎日拝読しています。
色即是空、空即是色。
人の作った常識など何のあてにもなりません。
お互いしっかりと日々自分形成に努めてまいりましょう。
がんばってください。
古来、言葉には言霊(言魂)と言って魂が宿ると信じられてきました。
不思議と言葉にはエネルギーが込められているようです。
言霊というと日本的な感性かと思いきや、キリスト教の聖書(ヨハネ伝)でも、「初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった。」とあるそうです。
言葉は思考(思想)であり、思考・思想は神の智慧ということだと思います。これは万国共通の概念なのかもしれません。
それゆえ、良い言葉を発する場合は、良い結果が訪れ。
悪い言葉を発する場合は、悪い結果が訪れるという真理が信じられているのだと思います。
道元禅師は「愛語、能く廻天の力あることを学するべきなり」と説きました。愛語には人を幸せにするだけでなく、人間の一生、ひいては国家、世界をも動かしてしまうほどの力があることを知りなさいということです。
「愛語」とは、愛のある言葉、慈愛の念より生ずる言葉です。
愛語というは 衆生を見るに まず慈愛の 心をおこし
顧愛の言語を ほどこすなり
愛語を好めば ようやく愛語を 増長するなり
しかれば 日頃しられず 見えざる愛も 現前するなり
また、良寛禅師は「戒語」という形で戒めるべき言葉を挙げました。
一例ですが、言葉の多き、口の早き、もの言いのきわどき、話の長き、もの言いのくどき、もの言いのはしなき、言繰る、表裏口などなど。(全部挙げるとかなり多いです。)
全部守ろうと思うと何も喋れなくなりそうなくらいです。
孔子も「言は訥がよし。」としています。
口は重いほうが良いということで、結局、喋れないくらい慎重なほうがいいということかもしれません。
逆に、キリスト教の聖書、仏教の経典、儒教の四書五経などは声に出して読むのが一番だと言います。声に出すとその音の力が通うということです。
四の五の言わずにいいから詠め。ということですね(笑)
文字にこだわってはいけないと先人は言います。
詠めば自ずと意味が通じると言います。
速読技術がもてはやされる風潮のなか、これは面白いことだと思います。
実学として即活用されるようなスキル、ノウハウの勉強は効率が求められるので速読でいいのではないかと思います。
しかし、真言というか、真理の言葉や、素晴らしい(美しい)文章というのは音読するのが良いのだということも最近よく学ぶところです。
ともあれ、言葉は大切であり、エネルギーを持っていることが改めて実感できました。
喋りすぎる自分としては、このことを常に意識し、不用意な言葉、心無い言葉を発することのないよう注意しなければなりません。また、素晴らしい文章は、音読していくということも意識していきたいことです。
「現代の覚者たち」の森信三先生のくだりを読んで感じた感想でした。
いつも本をプレゼントしてくれる友人に感謝―。