余幼少より敢えて招飲に赴かず。
索綯作籃(さくとうさくらん)を以って人の窮乏を助くるを楽しみと為す。
爾来孜孜(しし)として事に斯(これ)に従う。
敢えて自己の衣食を計らず。
以って今に至る。
索綯作籃とは、縄ないや籠づくりの手内職のことです。
人からの飲食接待をうけず、もっぱら寸暇を惜しんで仕事一筋。
脱帽です。
自分よりも人の事が気に掛かってしまってしょうがない人がいます。
二宮尊徳翁はそうだったのかもしれません。
甚だ残念ですが、自分の性格は割りと
自分が自分がという部分が強いようです。
しかし、これは生まれ持ったものだから
しょうがないと諦めるのではなく、
自分をどれだけ捨てて人のために生きられるか。
努力する価値のあることだと思っています。
きっと、性分を超えることはできると思っています。
森信三先生も仰っておりました。
良い性分は十分に活かし、良くない性分は極力削り落とす。
毎日が修養だと思います。
モノを作るときというのは「勢い」が大事だなと思います。
全体が10だとすると、最初に1やって、しばらくして3やって、またしばらしくして2やって、
なんてやっているといつまでたっても出来上がりません。
逆に、一旦作ると決めたら多少時間を取っても7~8までは一気に仕上げる。
8割程度まで仕上げると、後は暇を見つけて調整を続けると比較的楽に完成に至ります。
それは、web制作でもドキュメント制作でも、企画とかでも同じだと感じます。
大枠が出来上がってしまえば、後は何とかなるものです。
森信三先生はそれを「一気呵成」といって、モノを成す上での重要なポイントとしていました。
やるときは集中してやる。
睡眠時間を削ってもやる。
そして、ある程度やり遂げたら別の時間に仮眠を取る。
トーマス・エジソンはじめ、偉大な成果を残した偉人達も皆そういうスタイルだったようです。
最近、徐々にですがようやくコツが分かってきました。
エジソンほどになると、睡眠というものは夜するものじゃなくて、
集中力が切れて眠くなったときに少し取るくらいのものだったらしいですが…。
それで特に健康を害することもなく、84歳の天寿を全うするのだから、
ライフスタイル、生活習慣以上に、成さねば已まぬ。
という精神力が勝っていたという他ないように感じます。
どうもお互い人間というものは、自分の姿が一番見えないものであります。
したがって私達の学問修養の眼目も、畢竟するに、この知りにくい自己を知り、
真の自己を実現することだと言ってもよいでしょう。
実際われわれ人間は、わが顔でありながら、自分の顔を直接に見たものは、
この地球上でただの一人もないわけで、見たと思っているのは、
ただ鏡に映ったわが顔にすぎません。
―――森信三先生
他の動物は分かりませんが、人間はどうして自分の顔を自分で見ることができないのか。
何か深い意味があるような気がしてなりません。
それは、自分のことすら自分でよく知らないということに気付け。
という一種のメタファーかと思うくらいです。
上記、森先生が仰るように、知りにくい自分を知ることが修養の眼目であり、
知れば知るほどに自分に落胆させられる。
だから、さらなる修養を必要としていくのかなと思います。
よく、他人は自分を映し出す鏡だと言います。
肉体的にも精神的にも、自分で自分が見えないからこそ、何かを通して自分を
見なければならない故に到達する一つの真理なのかもしれません。
勿論、人だけでなくすべてのものが自分の鏡だと言えると思いますが、
その自分以外のものの中から如何に本当の自分を見出せるか。
自分では気付かなかった、自分の甘さ、頼りなさ、情けなさ。弱さ。
人やもの、経験を通してそうした現実に気付き、そして、
それらを削り取っていく作業が人生の一つの歩み方だと気付かされました。
風雪に耐えた老木には一種の芸術品のような気品がある。
と森先生は仰っております。
そこには、長い年月をかけて「甘さ」をそぎ落としてきた姿があります。
最後に、森先生はこう締めくくりました。
老木には決して迂闊に接するな。
常に精神的な偉人と一脈相通ずるもののあることを見、さらにそこに、
自己が生涯を通して至り求むべき終生の目標を見るようでありたい。
なんとなく感じていた老木に対する一つの疑問が解けた気がします。
人の寿命というのは大体決まっていて、直線的に考えれば
誰しもがほぼ70~80歳で天寿を全うすることになります。
早死にする人もいれば、100歳を超えるような人も
いはしますが、平均すると大差はないようです。
では、人間の偉大さというのはどこから来るか。
という問いに森信三先生はこのように答えています。
「人間の偉さは、結局この人生をどれほど深く生きるか。」
ということだと仰っております。
そして、深い生き方というのはどういう生き方かと続けています。
「すなわち人生を深く生きるということは、自分の悩みや苦しみの意味を
深く噛み締めることによって、かような苦しみは、必ずしも自分一人だけ
のものではなくて、多くの人々が、等しく悩み苦しみつつあるのだ、
ということが分かるようになることではないかと思うのです。」
実際に人生を深めていくにはどうしたらよいかというと、
「まず相手の気持ちを察することから始めたらと思うのです。
すなわち、これまでは、物事をとかく自己中心的に、
ただ自分だけのことしか考えられない生活だったのは、
実に狭くて浅い生き方だと気付くということです。」と。
なんだか自分のことを言われているような講義です。
何より、まず自分が悩み苦しみを深く味わう必要があります。
味わいたくないからと、悩むべき問題、苦しむべき問題を無視していると、
人の気持ちはおろか、自分の気持ちすら分からぬ人間になってしまいます。
悩み苦しみと聞くと仏教が連想されますが、その後森先生は
先哲の中でも特に親鸞聖人はこの体験を深くされているので、
親鸞聖人の伝記や「歎異抄」を読むようにと薦めています。
悩み、苦しみに対して真摯に向き合っていく。
そして、それは決して我が身だけのことではないと、
心を押し広げていけたらと思います。
よく、山(長所)と谷(短所)のギャップのある人ほど
その落差が魅力を引き出すという話を聞きます。
なるほど確かにと思って、ギャップや落差のあることを
随分と良しとしてきました。
しかし、自分は一点完全な勘違いをしていました。
修身教授録の「長所と短所」の項を読んでそれを
ハッと気付かされました。
どういうことか。
それは、長所と短所と一口に言っても、外面的な
長所・短所と内面的な長所・短所に分かれるという
ことです。
外面的なというのは知識技能ということであり、
内面的なというのは精神性格のことであります。
読んでみれば当たり前のことですが、
それにすら気付いていない、否、うすうす気付いて
いながら知らん振りをしていたあたりがやはり
おめでたい証拠です。
森先生は、知識や技能と言った外面的な事柄は
一般的に短所を補うより長所を伸ばしたほうが
良いと考え。精神性格と言った内面的な事柄は
長所を伸ばすより、欠点を矯正することのほうが
良いと考えておりました。
知識や技能といった事柄は、長所と短所が
逆を向くケースが多々あります。
例えば、理系に強い人間は文系に疎かったり、
スポーツが出来る人は、文化的な要素に欠いたりと。
逆もしかりです。なので、短所を補ったところで、
その効果は薄いけれども、長所を伸ばすとたちまちに
その能力が発揮されるということです。
逆に、精神性格というのは長所と短所が表裏一体です。
例えば、能弁な人間がいるとすると、その人間は一歩を
誤ると多弁饒舌になります。また、厳格ということは
一つの美徳ではありますが、行き過ぎると冷酷になります。
勇気も過ぎると粗暴になります。
孔子も「六言六弊」として確かそんなようなことを言っていました。
よって、精神性格というのは、長所を伸ばすのではなく
短所を補うことが先決であり、それが即ち長所を伸ばす
ことに通じてくるということでした。
最近になって、ようやくその本意の一端を実感しているところです。
精神性格上の欠点を自分の「味」や「色」と思うのは、あきらかに「甘え」です。
最後に、森先生のご忠告を自分への戒めとして。。。
精神というものは、それが真に伸びるためには、
必ずや何らかの意味において、一種の否定を通らねばなりません。
この否定という浄化作用、すなわち自己反省というものを
通らずに伸びたのは、精神としては真に伸びたのではなくて、
かえって度の過ぎたものとして、結局欠点になるわけです。
自己否定というのは、一種のろ過作業のようなものと心得、
否定というフィルターを通しての浄化なくして、精神の向上は有り得ない、
むしろ度の過ぎた事と知らなければならないことを学びました。
森信三先生曰く「われわれは苦労することによって、
自分の『お目出たさ』を削りとってもらうんです。
現実の世界は決してお目出たくはないのです。」
最近、つくづく自分はお目出たい人間だなと感じます。
今までそれをポジティブだとか勘違いしていたところが多分にあります。
事が起こると良かれ悪かれ、自分の都合の良いように
考えることは良い事でも何でもありません。
それは、自分可愛さゆえの逃げでしかありません。
西郷南州翁遺訓26条には下記のようにあります。
己を愛するは、よからぬことの第一なり。
修行の出来ぬも、事の成らぬも、
過ちを改むることの出来ぬも、
功にほこり驕慢の生ずるも、
みな自ら愛するがためなれば、
決して己を愛せぬものなり。
自分へのお叱りかと思う教訓です。
自分に厳しくするというのは、言うは安しですが、
しかし、それでも出来ない自分にそう言い続け、
実際に何か一つでも行動せねば前には一歩も進めません。
続く27条に、
過ちを改めむるに、自ら過ったとさえ思いつかば、
それにて善し、そのことをば棄てて顧みず、直ちに一歩踏み出すべし。
この言葉に勇気をもらい、常に一歩を踏み出す他ありません。
退歩することのないよう日々少しでも前進していきたいと思います。
綱渡りが喝采を受けるのは、なるほど途中でも
喝采は受けましょうが、しかし真の喝采となると、
どうしても向こう側へ着いてからでないと、
真の喝采とは言えないでしょう。
と言うのも、もしも万一のことがあったならば、
途中での喝采はたちまち無効になるからです。
そこで真に間違いのない喝采となると、やはり首尾よく
綱を渡り終えてからでないといけないわけです。
同様に今、人間の真価が本当に認められるのも、
綱を渡り終えたところ、即ち亡くなってからのことでしょう。
しかし、その真価は、死後にあるのではなくて、
実に生前の生活そのものにあることを忘れてはならぬのです。
結局一口に申せば、その人の一生が、いかほど誠に
よって貫かれたか否かの問題でしょう。
―と、森信三先生は仰っております。
とてもわかりやすい例えでした。
いくら、途中までは努力していたとしても、
最後まで渡りきらなければ全くそれまでの努力は
無効となるのです。
綱渡りは一瞬の油断も、停滞も出来ません。
油断したら落ちるし、立ち止まっても落ちる。
まるで人生そのものです。
そして、死んで初めてその真価が評されるというのも
全くその通りだと思いました。
自分は、人生という綱の上にいることをよくよく
イメージして、一歩一歩をより慎重に、そして、
止まることなく、歩いて行かなければと思います。
森信三先生は一人の人間が出来上がる上で、
最も重要な三大要素は「血、育ち、教え」である。
と仰っています。
血とは、血統のことであり、遺伝。
育ちとは、その人の生い立ち。
教えとは、その人の心を照らす光。
家庭における躾は「育ち」に入るので、
教えとは、家庭以外での教育である。
と説明しています。
森先生曰く、
一人の人間が出来上がるには、これらの三大要素が
それぞれ大切ですが、とくにこのうちの前の二つは、
根強い力を持ち、それ故、この「血」と「育ち」に
対しては、よほど立派な教えを聞き、さらにまた
自分としても相当努めたつもりでいましても、
この血と育ちに根ざした人間の「あく」というものは、
なかなか容易なことでは抜けないのです。
国民教育者として、「教え」を大切にしている森先生
だからこそ、あえて「血」の話しも出しました。
「血」、「遺伝」というものの強さを認めるということは、
修養に取り組む者の出鼻を挫く恐れがあることを承知で
三大要素の一部であり、とりわけ根強いものと断言しております。
それゆえ、血や育ちの良さからくる気品というものは、
いわばおのずからというべきところがあり、一々自ら
意識せずとも、おのずから立派な言動となります。
気品を身に付けるというのは非常に難しいことで、
生涯修養しても身に付けることのできない者もいます。
むしろ、身に付けることができない者のほうが多いくらいです。
だからこそ、そうした気品ある人の所業を平素から
良く観察することが重要であり、かつ、自らの言動の
上における「血」や「育ち」からくる「卑しさ」に
気付かなければなりません。
その気付きは「教え」によってもたらされます。
自らを照らす光である教えがあって、初めて
自らの「卑しさ」「醜さ」に気付くことができると
言います。
さらには、このような自分の醜さのよってくるところが、
遠くその血と育ちとに根差すものだということに
気付くに至って、教えの光は、ようやく自己の骨髄に
染み込みかけたというでしょう。と。。。
「血」と「育ち」に根差す人間の「あく」というものは、
若い頃からよほどの決意を持ってその除去に取り組むので
なければ、おそらくは生涯かかっても、抜き去りえない
でしょう。と。。。
森先生にしてここまで言わしめるのだから、相当の
覚悟と努力がないかぎり、人間の「あく」抜きという
のは困難なことなのだと思います。
しかし、ようやく自分の「あく」というものが掴めて
きました。もう二十台も終わりに差し掛かっておりますが、
生涯をかけたあく抜き作業。抜ききるに至らなくとも、
気付いた「あく」は取り除いていきたいと思います。
最後に、先生曰く。
気品とは人間の修養上、最大の難物である。
これは、多くの偉人を見た人物からも同じ言葉を
聞きました。養いがたいもの。
気品には遠く及ばずとも、道しるべとして、
比較対象の根本としてこれからも歩んで行きたいと思います。
量り得ぬ 無限の良知が そこにある
されど我が身の あまりの無知よ
良書を手にすると、非常に感動します。
その本に納められている智恵に感動します。
偉大な人物に出会ったかのような縁を感じます。
そして、読み終わると自分のあまりの無知を知ります。
もっともっと学んで自分の血肉にせねばと思います。
学んだことをしゃべってみると案外まともに話せない
自分がいます。
そんな自分を見ると、あぁ。腑まで落ちていない
んだろうなと感じます。
それが歯痒くて悔しいのですが、しょうがありません。
何度も何度も、繰り返し学ぶに如かずです。
古典大学に格物致知とあるように、実体験に基づいて
本当の知識、胆職にしていかなければなりません。
胆職でもって、活躍するその日を夢見て。
今は努力するしかありません。
森信三先生も「修身教授録」の中で、人は40歳までが
準備期間だと仰っています。
20歳までに志を立て、40歳まで準備をしっかりとして、
60歳まで天下、国家のために働く。
40歳は人生の半ば、ちょうど登山でいう、山頂についた
ところです。
山頂に立てば、今までの道も省みることができ、
これからの道のおおよその着地点も見ることができます。
すなわち、人生の終着点への過程をおおよそ思い描ける
ということだと仰っています。
それまでは、国家、社会のためにしっかりと働けるよう
日々準備をしていかなければと思います。
こういった気付きを、まるで直接教えて頂いているような
気になる。それが良書なのだなと感じます。
名誉や利益、飲食や性欲など。人間の煩悩について森信三先生の言葉をまとめてみました。
自分の持っている凡ての知識や経験を、根本的に統一するためには、ある意味では現世的な欲望を捨てねばなりません。そしてこの点こそ、実際問題としては実に容易でないばかりか、この点を真に理解することさえ、実際には容易なことではないのです。
多くの相対的なものを統一するには、一度はそうした相対的な立場を超える必要があるわけです。「超える」というのは、主体的には一応それらを「捨て」ねばならぬ―ということです。
名・利―即ち名誉とか利益とかいうものは、本当は相対的なもの、すなわち真に絶対的なたよりになるものではないにも拘らず、しかもそのことが真に解るためには、われわれ人間は、まさに「死」に近いほどの苦悩を味わいつつ、これらを通過しなければならぬわけです。
人間はいくつになっても、名と利の誘惑が恐ろしい。有名になったり、お金が出来ると、よほどの人でも、ともすれば心に「ゆるみ」が生じる。
人間のシマリは、まず飲食の慎みから―。
次には無駄づかいをしない事。そして最後が異性への慎み。
人間のシマリは、「性」に対するシマリをもって最深とする。しかも異性に対する用心は、何といっても接近しないことである。如何なる人でも近づけば過ちなきを保し難いのが、「性」というものの深さであり、その恐ろしさである。
性欲の萎えた人間に偉大な仕事はできない。
―それと共に、みだりに性欲を漏らす者にも大きな仕事はできぬ。
人間はこの肉体をもっている限り、煩悩の徹底的な値切りは不可能である。そしてこの一事が心根に徹して分かることこそ、真の「救い」といってよかろう。
煩悩の多くは相対的であり、絶対的なものではないから、一度それらを捨てる必要がある。しかし、人間は煩悩を捨てきれるものではないし、死ぬほどの努力でもって、捨て、超えようとした先に、捨てられるものではない、超えられるものではないと悟る。すると、それらを捨てようとするのではなく、見ないようにするのでもなく、適当な距離において、生きていくことが大切だと仰っているのではないかと思います。
近づきすぎると危険であり、遠すぎると力は沸いてこない。
この扱い方、この距離感が非常に難しいのだと思います。
名・利を手にした場合、自分の心のあり方がどう変化するか今はなかなか想像できませんが、そうなった場合でもいつでもこの千鈞の言葉、金言を思い出し、自分を戒め、謹んでおれるようにありたいと願います。
本当の武士はまさにこの通り生きてこられた人たちだと思います。
この難しい命題への実践者、実現者が数多く存在した日本という国に誇りを持つと同時に、自分もまたその一人の実践者でありたいと思います。