2010 年 3 月 3 日 |
No Comments | タグ: 修身教授録, 六言六弊, 孔子, 森信三
よく、山(長所)と谷(短所)のギャップのある人ほど
その落差が魅力を引き出すという話を聞きます。
なるほど確かにと思って、ギャップや落差のあることを
随分と良しとしてきました。
しかし、自分は一点完全な勘違いをしていました。
修身教授録の「長所と短所」の項を読んでそれを
ハッと気付かされました。
どういうことか。
それは、長所と短所と一口に言っても、外面的な
長所・短所と内面的な長所・短所に分かれるという
ことです。
外面的なというのは知識技能ということであり、
内面的なというのは精神性格のことであります。
読んでみれば当たり前のことですが、
それにすら気付いていない、否、うすうす気付いて
いながら知らん振りをしていたあたりがやはり
おめでたい証拠です。
森先生は、知識や技能と言った外面的な事柄は
一般的に短所を補うより長所を伸ばしたほうが
良いと考え。精神性格と言った内面的な事柄は
長所を伸ばすより、欠点を矯正することのほうが
良いと考えておりました。
知識や技能といった事柄は、長所と短所が
逆を向くケースが多々あります。
例えば、理系に強い人間は文系に疎かったり、
スポーツが出来る人は、文化的な要素に欠いたりと。
逆もしかりです。なので、短所を補ったところで、
その効果は薄いけれども、長所を伸ばすとたちまちに
その能力が発揮されるということです。
逆に、精神性格というのは長所と短所が表裏一体です。
例えば、能弁な人間がいるとすると、その人間は一歩を
誤ると多弁饒舌になります。また、厳格ということは
一つの美徳ではありますが、行き過ぎると冷酷になります。
勇気も過ぎると粗暴になります。
孔子も「六言六弊」として確かそんなようなことを言っていました。
よって、精神性格というのは、長所を伸ばすのではなく
短所を補うことが先決であり、それが即ち長所を伸ばす
ことに通じてくるということでした。
最近になって、ようやくその本意の一端を実感しているところです。
精神性格上の欠点を自分の「味」や「色」と思うのは、あきらかに「甘え」です。
最後に、森先生のご忠告を自分への戒めとして。。。
精神というものは、それが真に伸びるためには、
必ずや何らかの意味において、一種の否定を通らねばなりません。
この否定という浄化作用、すなわち自己反省というものを
通らずに伸びたのは、精神としては真に伸びたのではなくて、
かえって度の過ぎたものとして、結局欠点になるわけです。
自己否定というのは、一種のろ過作業のようなものと心得、
否定というフィルターを通しての浄化なくして、精神の向上は有り得ない、
むしろ度の過ぎた事と知らなければならないことを学びました。
2010 年 1 月 12 日 |
No Comments | タグ: 下村湖人, 孔子, 論語, 論語物語
孔子が求めたのは古聖人の道を忠実に祖述することでした。
孔子自身は、自分の道に創意は一切無いと門徒たちに説明しました。
古聖人の道は完全無欠だから、ただこれを信じ、ただこれを好み、
そしてそのままに世に伝えてさえいけばよいと。
ある門徒は言いました。
「私どもは、先生の教えが、単に古聖人の祖述であるとは信じたくありません。
それは先生のご謙遜ではありませんか。第一、もし古いものを伝えていくだけが
人間の道だとしますと、世の中には何の進歩もないわけであります。
だからこそ、殷の湯王の盤の銘にも「まことに日に新たに、日々に新たに、
日にまた新たなり」とあるではありませんか。私どもは、いくたびとなくその言葉を
先生に教えていただいたと記憶していますが…」
孔子はこれを聞いて、微笑し、言いました。
「お前の言うことは、まるで見当違いじゃ。
古聖人の道をこの山(泰山)にたとえてみよう。
お互いにこの泰山の頂をきわめないで、一寸一分でもそれを高くすることが
できると思うのか。聖人の道にただ一つでも創意を加えようとするには、
まず古聖人の道を完全に理解しなければならない。
頭で理解しただけではいかぬ。
心で、からだで、つまり実践の道において自由自在に自分のものと
しなければならない。わしは今日までそれを努めてきたのじゃ。
努めてきた結果、いよいよ古聖人の道の完全無欠なことに驚くばかりじゃ。
お前は、世の中の進歩を望んでいるようじゃが、世の中を進歩させるには、
まずお前自身が進歩するのが、一番の近道じゃ。どうじゃ、
古聖人の道がほうとうにわかったかの。古聖人以上の道をわしに求めるほどに、
お前自身の準備はもう整ったかの。もしまだ整っていないとすれば、
湯王の盤の銘にあるように、毎日自分の垢を落として、日に日に新たになることじゃ。」
と。。。
山を一寸一分でも高くするという例えが非常に分りやすい教訓でした。
創意、オリジナルというものは、山の頂に立たずして得うるものはありません。
また、世の中の進歩発展も、まずは己の進歩発展からです。
新しい何かを求める前に、すでに存在する完全無欠の道をどれだけ歩めるか。
日々の生活に反省する点が多すぎて、ちっとも進んでいる気がしない2010年初。
2010 年 1 月 7 日 |
No Comments | タグ: 下村湖人, 孔子, 論語, 論語物語
論語には、「巧言令色鮮なし仁」とか「剛毅木訥、仁に近し」など非常にわかりやすい言葉もある反面、歴史背景、そのときの状況などがわからないと意味が理解できないところもしばしばあります。
例えば、次の憲問篇の言葉は断片的で意味が少しわかりづらいです。
子、磬(けい)を衛に撃(う)つ。
簣(あじか)を荷ないて孔氏の門を過ぐる者あり。
曰わく、心あるかな、磬を撃つこと。
既にして曰わく、鄙(いやし)きかな、コウコウ乎(こ)たり。
己れを知ること莫(な)くんば、斯れ已(や)まんのみ、深ければ勵(れい)し、浅ければ掲す。
子の曰わく、果なるかな。
難(かた)きこと末(な)きなり。
先生が衛の都で磬をたたいておられたとき、もっこを担いで孔家の戸口を通り過ぎる者がいてこう云った、「心がこもっているね、この磬のたたき方は。」
しばらく経つとまた言った、「俗っぽいね。こちこちの音だぞ。自分のことを分かってもらえなければ、そのまま止めるだけのことさ。『深い川なら着物を脱ぐし、浅い川ならすそからげ』だよ。」
先生は言われた、「思いきりが善いね。だが難しいことじゃないよ。」
これは、通常の訳ですが、訳を読んでも意味がわかりづらいので、簡単に背景を説明します。
孔子は自分の理想の政治を行える国を探して諸国を放浪している過程で衛の国にいました。
しかし、衛の国の王様は孔子を形だけの家臣として迎えようとしていて、全く理想の政治には関心がありません。
そんな王様や衛の国に嘆いて、磬(けい)という石でできた楽器をたたいていました。
その音に、もっこを担いだ百姓姿のひとりの男が反応して上記のようなことを言いました。
男は、その楽器の音から、孔子は、自分を知ってくれる者がいないと嘆いていることがわかったのです。
男は陰士。山に篭って瞑想をしている世捨て人です。
「わしに添いたきゃ、渡っておじゃれ、水が深けりゃ、腰まで濡れて、浅けりゃ、ちょいと、小褄をとって。惚れなきゃ、そなたの気ままよ。」と歌いました。
つまり、わかってくれる人がいなければ、諦めればいいだけだということです。
孔子は男を「思い切りのいい人だ。」と言いました。
そして、「一身を潔くするというだけのことなら、たいして難しいことではない。難しいのは天下と共に潔くなることだ。」と最後に言いました。
ここまでくると、なるほど。と思います。
たしかに一身において潔くなることは難しくありません。
しかし、それでは潔のよい「諦め」です。
そうではなくて、天下と共に潔くなる。
言い換えれば、「天意のままに生きる」ということになるのでしょうか。。。
その意味する深さははかりかねますが、冒頭の短い言葉だけだと、言わんとするところが伝わりづらいです。
しかし、背景などを知って、また論語を読むと非常に人間味溢れた孔子や門徒の息遣いが聞こえてきます。
下村湖人の論語物語は、論語の一歩を奥を楽しめるストーリーが満載です。
入門書としてもオススメできますし、論語を一通り読んだ後だと尚楽しめる本です。
今年は、論語を表面だけ楽しむのではなく、もう一歩踏み込んで楽しめたらと思います。
2010 年 1 月 4 日 |
No Comments | タグ: 孔子, 月刊致知, 論語
子日はく、「吾かつて終日食はず、終夜寝(い)ねず、以て思う、益なし。学ぶに如かず。」(論語)
自分は若い時、一日中食べることを忘れ、一晩中寝ることをやめて思索をめぐらしたが、何も得ることはなかった。やはり聖賢の教えを学ぶことのほうがはるかに益があると悟った。
聖賢の教えを学び続けるということは非常に重要だと思います。
去年一年でだいぶ古典を身近に感じるようになりました。
しかし、それらの教えが全て自分の血肉となっているかと言ったらまだまだ表面を学んだに過ぎません。
大半の教訓が文字のまま頭に入っているだけです。
「学びて思わざれば即ち罔(くら)し」とあるように、ただ文字を頭に入れるだけではなく、血肉とするために、学んだことをよく考え、毎日の生活にその教訓を活かしていきたいと思います。
「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
体験から学ぶことは、強烈でそれこそ生きた学びになりますが、歴史から学べるものは、しっかりと学んでいく一年に改めてしたいと思います。
参考:致知2010年2月号
2009 年 12 月 28 日 |
No Comments | タグ: 下村湖人, 孔子, 論語, 論語物語
今年は論語はじめ儒教に関する本を多少読みましたが、群を抜いて面白かった、分りやすかったのが下村湖人先生の論語物語でした。
論語に出てくる孔子や孔子の門徒達を登場人物として、論語に書かれた教訓を物語風の短編小説にして描いています。
よく、論語読みの論語知らず。ということが言われますが、論語の教訓は門徒それぞれの性格や個性に応じて孔子が言われたことでありますので、それぞれ門徒自身のことも合わせて考慮する必要があります。
その点、下村先生の論語物語は門徒の性格や個性が滲み出たストーリーになっており、そのストーリーの流れの節々で孔子や高弟から教訓が語られます。
この教訓は、こんな流れの中から出てきたものだったかもしれないと考えることは非常に楽しいものでした。
楽しい物語ではありますが、ただ「楽しかった」ということではなく、登場してくる不完全な門徒と自分を重ね合わせ、それぞれのシチュエーションで同じような過ちをするであろう自分を戒めていきたいと思います。
今年は冒頭でも述べたように、多少本を読みましたが、そんな自分に良い教訓があったので最後にそれをもって締めくくりたいと思います。
前略「子路などは、その点では非常に感心なところがあって、一つの善言を聞いて、まだそれを実行することができないうちは、他の善言を聞くことを恐れるといった具合じゃ。真に道を求める者は、そのくらいの真面目さがあっていい、と私は思っている。」
(子路聞くことありて、未だこれを行うこと能わずんば、唯聞くことあらんことを恐る。)
今年は自分のキャパをはるかに超えた善言を聞いてきました。
知りて行なわざるは、ただこれ未だ知らざるなり。
一つ一つの善言を確実にものにしていくべく、来年は「実行」の一年にしたいと思います。
2009 年 10 月 19 日 |
No Comments | タグ: キリスト, 孔子, 良寛, 言葉, 言霊, 道元
古来、言葉には言霊(言魂)と言って魂が宿ると信じられてきました。
不思議と言葉にはエネルギーが込められているようです。
言霊というと日本的な感性かと思いきや、キリスト教の聖書(ヨハネ伝)でも、「初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった。」とあるそうです。
言葉は思考(思想)であり、思考・思想は神の智慧ということだと思います。これは万国共通の概念なのかもしれません。
それゆえ、良い言葉を発する場合は、良い結果が訪れ。
悪い言葉を発する場合は、悪い結果が訪れるという真理が信じられているのだと思います。
道元禅師は「愛語、能く廻天の力あることを学するべきなり」と説きました。愛語には人を幸せにするだけでなく、人間の一生、ひいては国家、世界をも動かしてしまうほどの力があることを知りなさいということです。
「愛語」とは、愛のある言葉、慈愛の念より生ずる言葉です。
愛語というは 衆生を見るに まず慈愛の 心をおこし
顧愛の言語を ほどこすなり
愛語を好めば ようやく愛語を 増長するなり
しかれば 日頃しられず 見えざる愛も 現前するなり
また、良寛禅師は「戒語」という形で戒めるべき言葉を挙げました。
一例ですが、言葉の多き、口の早き、もの言いのきわどき、話の長き、もの言いのくどき、もの言いのはしなき、言繰る、表裏口などなど。(全部挙げるとかなり多いです。)
全部守ろうと思うと何も喋れなくなりそうなくらいです。
孔子も「言は訥がよし。」としています。
口は重いほうが良いということで、結局、喋れないくらい慎重なほうがいいということかもしれません。
逆に、キリスト教の聖書、仏教の経典、儒教の四書五経などは声に出して読むのが一番だと言います。声に出すとその音の力が通うということです。
四の五の言わずにいいから詠め。ということですね(笑)
文字にこだわってはいけないと先人は言います。
詠めば自ずと意味が通じると言います。
速読技術がもてはやされる風潮のなか、これは面白いことだと思います。
実学として即活用されるようなスキル、ノウハウの勉強は効率が求められるので速読でいいのではないかと思います。
しかし、真言というか、真理の言葉や、素晴らしい(美しい)文章というのは音読するのが良いのだということも最近よく学ぶところです。
ともあれ、言葉は大切であり、エネルギーを持っていることが改めて実感できました。
喋りすぎる自分としては、このことを常に意識し、不用意な言葉、心無い言葉を発することのないよう注意しなければなりません。また、素晴らしい文章は、音読していくということも意識していきたいことです。
「現代の覚者たち」の森信三先生のくだりを読んで感じた感想でした。
いつも本をプレゼントしてくれる友人に感謝―。
2009 年 10 月 15 日 |
No Comments | タグ: スラムダンク, 孔子, 実践, 桜木花道, 考える
水泳の先生が3年間講義をしました。
息継ぎの仕方、水の掻き方、バタ足の仕方。
なるほど良く分かりました。と、言ってドボンと水に入ったら泳げるか。
やはり泳げないかと思われます。
体験を通さなければ何事も体得できない、ということの一例です。
海の塩辛さは自ら海に入らなければわからないのと同じように。
僕がこの一年をかけて学んでいることは、人としての正しいあり方を見直すものでした。
よって人間関係にはかなり気を使っています。
(それで気を使ってたの?と思うかもしれませんがw)
今までラフに行ってきたことが随分慎重になりました。
(いや、、、まだまだ、言うほど慎重になりきれてはいませんが。)
ただ、意識してこなかったことを随分と意識するようになりました。
しかし、まだまだ配慮が足りなかったのでは?
慎重に出来なかったのでは?ということが山ほどあります。
振り返るとガッカリすることが多い毎日です。
あのときの発言はもっとこうしておけば良かった、態度はこうであれば良かったということが尽きません。
かなり窮屈です。
しかし、スポーツでも勉強でも何でもそうです。
「道」と付くものは特にですが、最初は非常に窮屈です。
そう言えば、花道君も「シュートの正しい型を覚えるときは非常に窮屈だった。」
と言っていました。
型を覚えるまでは誰でもぎこちないんですね。
だから、この状態が自然となるまで実践あるのみ。継続あるのみ。
それにしても、自分の生き方のスタイルを変えるって大変です。
今までも自分の生き方を大きく変えようと試みたことが一度ありました。
大学のときです。その時は、楽しい方向、本能的な方向、つまりは「開放」という形だったので、なんの苦痛もありませんでしたが、逆は非常に大変です。
楽してきたので自業自得ですが。
孔子の言う、
従心所欲、不踰矩(心の欲する所に従って、矩を踰えず。)
という境地に一日も早く至れるよう日々精進あるのみです。
う~ん。
矩を踰えずという境地で、開放したら大変なことになってしまうじゃないかと。
今からワクワクしています。
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2009 年 10 月 6 日 |
No Comments | タグ: コーチ21, コーチング, 孔子, 気付き, 自発性, 論語
ふとしたご縁とご好意で、コーチ21という会社に遊びに行くことになりました。
恥ずかしながら、それまでは知らなかったのですが、コーチング業界ではパイオニアということでした。
会津大学に一冊コーチ21の伊藤守会長が執筆した「コーチング・マネジメント」という本があったので借りて読んでみました。
物凄く簡単にレビューします(笑)
コーチングとは一言でいうと、「自発的な行動を促すコミュニケーション」である。
「教える」のではなく、自分自身の頭で考えさせ、気付かせ、実際に行動に移してもらえるように導く。
即ち、考えてもらえるような「質問」をする。
ということがこの本では大きなポイントとなっています。
そのための細かいスキルやノウハウ、知識が追って説明されていました。
個人的な気付きとしては、「自発的な行動を促す」という部分が非常に納得できました。
自分自身の経験からもそうですが、自ら「何とかしなきゃ!」と思えないかぎり、やらされているだけで、自発的な行動にはなりません。「やらされているだけ」のことは、その瞬間は出来ていても継続しません。
孔子も言っています。
如之何(いかん)、如之何と曰わざる者は、吾れ如之何ともすること末(な)きのみ。
「どうしようか、どうしようか」と自問自答するくらいの段階に達してない者には、教えようがない。ということです。
真の教育は教わるものの自発性を高めることに力を注ぐべきである。
「高校生が感動した『論語』」の著者、慶應高校の名物講師、佐久協氏も教育の真理をこのように説明していました。
自発性を生み出す。
これが究極の教育である。
そのためのスキルの一つがコーチングであるということがわかりました。
「自発性を生み出す」奥が深いテーマです。
そう言えば、以前「自発性を育む」というテーマで書いたブログがありました。
NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」を見て感想を書いたものですが。
「子供・部下そして自分を育てる6つの極意」も参考にどうぞ。
2009 年 8 月 24 日 |
No Comments | タグ: 中庸, 孔子, 孟子, 新渡戸稲造, 武士道, 誠
孔子は「中庸」の中で誠をあがめ、超越的な力をそれに与えて、ほとんど神と同格であるとした。すなわち「誠なる者は物の終始なり。誠ならざれば物なし」と。
そして孔子が熱心に説くところによれば、誠は次の通りである。まず至誠は広々として深厚であり、しかも、はるかな未来にわたって限りがない性質をもっている。そして意識的に動かすことなく相手を変化させ、また意識的に働きかけることなく、みずから目的を達成する力を持っている。
と、稲造先生は解説しています。
中庸の書において、誠は「天の道」「天命」として基礎づけられました。孔子は論語の中で、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と絶賛しています。
武士にとって、嘘をつくこと、あるいは誤魔化しは、等しく「臆病」「弱さ」とみなされました。武士にとって「臆病」「弱さ」は不名誉であり、「二言」つまり二枚舌のために「死」をもって罪を償った物語は数多く残されています。よって、「武士の一言」は、断言したことが真実であることを十分に保証するものでありました。それが武士の誇りであったことは想像に難くありません。
「言」が「成」と書いて誠ですが、有言実行はもとより、「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」という孟子の言葉を噛みしめて生きていきたいと思います。
2009 年 8 月 19 日 |
No Comments | タグ: 勇, 孔子, 孟子, 新渡戸稲造, 武士道, 義
義…信頼の徳
義とは、信頼の徳です。
人間関係を保つための信義の徳。
人間関係を保つための真っ直ぐな狭い道です。
孟子曰く「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」
「仁」は住み心地のよい家のように安らかな身の置き所であり、「義」は人の踏み行うべき正しい道である。
また、孟子曰く、「仁は人の心なり、義は人の路なり。その路を舎てて由らず。その心を放ちて求むることを知らず。哀しいかな。人、鶏犬の放つことあれば、即ちこれを求むるを知るも、心を放つことあるも求むるを知らず。」
「仁」とは人の心であり、「義」とは人の道である。その道を捨てて歩むことをせず、その心を失って顧みようとも思わない。悲しいことだ。人は、鶏や犬がいなくなれば、すぐ探し求めるのに、道を捨て、心を失っても取り戻そうとしない。
勇…義によっておこる勇気
勇は正しいことをする勇ましい心であります。
孔子曰く「義を見てせざるは勇なきなり」
勇気とは正しいことをすることである。
また、孔子曰く「勇ありて義なきは乱を為す」
「勇」があっても、そこに「義」がなければ世を乱すもととなる。
このように、「勇」は「義」によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値がないとされました。
道徳的勇気と肉体的勇気
死に値しないことのために死んだり、ただ闇雲に危険を冒すことなどは「勇」と呼ばず、それらは「犬死」とか「蛮勇」として蔑まされる対象となりました。
武士道の中では、大事に当たって奮い起こす勇気である「大義の勇」と、思慮分別なくただ血気にはやる浅はかな勇気である「匹夫の勇」は明確に区別されました。
静的勇気と動的勇気
「果敢な行為」が勇気の動的表現であるならば、「平静さ」とは、勇気の静的表現であります。
真に勇敢な人は常に落ち着いていて、決して驚き慌てず、何ものによっても心の落ち着きが乱されることがあってはなりません。そのような人物を真に偉大な人物として賞賛するのが武士でした。
最後に、新渡戸稲造先生は、勇気と名誉はともに価値ある人物のみを平時に友とし、戦時においてはそのような人物のみを敵とすべきことを要求しているのである。と説明し、勇気が高みに達するとき、それは「仁」に近づくと締めくくっています。
義と勇は表裏一体であり、切って離しては存在する価値がないものだと学ぶことができました。義と勇の関係は、文と武の関係であり、文武両道の本当の意味がここにあるのだということを改めて感じました。
胆力を養う努力を続け、正しい道を踏み生きていけるよう、常に気を張って生きていきたいと思います。