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積小為大(せきしょういだい)

大事をなさんと欲せば、小さなる事を、怠らず勤むべし。
小積もりて大となればなり。
凡そ小人の常、大なる事を欲して、小なる事を怠り、
出来難き事を憂いて、出来易き事を勤めず。
それゆえ、ついに大なる事あたわず、それ大は小を
積んで大となる事を知らぬ故なり。

――二宮翁夜話より

鍵山秀三郎氏も、「良樹細根」をモットーに、
「平凡な事を非凡に勤めなさい」と言われました。

チリも積もれば、、、と知りながら、我が身を振り返ると、
なかなか小事徹底、凡事徹底が出来ていないことを痛感します。

些細なこと、当たり前なことを真剣に取り組まなければと思います。

現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉
現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉 渡辺 毅

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儲け物

先日、九段下に用事があり、帰りに靖国神社へ参拝しました。
靖国神社には幕末・明治維新以降の戦争で、天皇・朝廷・政府側の
立場で命を捧げた戦没者240万の英霊が眠っています。

明治維新、戊辰戦争から大東亜戦争まで、若い多くの命が奪われました。
境内に置いてある、神風特攻隊員の遺書を見ると涙が流れます。
今の日本があるのも、全て先人あってのものなのだと強く感じます。

今現在日本には幸い戦争はありません。
死に直面する機会は随分と減りました。
しかし、死が遠くなったわけではありません。

二宮尊徳翁が夜話にて、「人生限りあり」とよんでいます。

人と生まれ出でたるうえは、必ず死する物と覚悟する時は、
一日活きれば即ち、一日の儲け、一年活きれば一年の益なり。
故に本来わが身もなき物、わが家もなき物と覚悟すれば、
あとは百時百般みな儲けなり。

維新や戊辰戦争でも、大東亜戦争でも自分と同じ、
あるいはもっと若い人間が国のために死んでいきました。

今の自分はすでになき物と考えると、一日生きること、
一年生きることは全て儲け物と考えることができます。

この儲けた命を無駄に使うことのないよう、
先人に恥じることのないよう、心して活きたいと思いました。

現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉
現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉 渡辺 毅

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二宮尊徳の教え 其の十七 積善の家に余慶あり

尊徳先生は、禍福吉凶について以下のように述べています。

方位によって禍福を論じ、月日によって吉凶を説くということが昔からある。世間の人はこれを信じているけれども、そんな道理があるはずがない。禍福吉凶は、方位や月日によって決まるものではない。それは迷信である。仏教では「本来東西という方角などない」とさえいっている。禍福吉凶は、それぞれ自分の心と行いが招くところにやってくるのであり、また、過去の因縁によってやってくるのである。

ある高徳の僧が強盗に遭ったときの歌に、「前の世の 借りを返すか今貸すか 何れ報いは 有るとこそしれ」と詠んだ通りであろう。絶対に迷ってはいけない。強盗は鬼門から入ってはこない。悪日だけに来るのでもない。戸締りを忘れたら、入ってくるものと思いなさい。火の用心を怠れば、火事が起こるだろう。試しに、戸を開けておくがいい。犬が入ってきて、食べ物をあさるだろう。これは、明白なことだ。

易経に「積善の家に余慶あり、不積善の家に余殃(よおう)あり」(善行を積み重ねた家には、必ず子々孫々の後に至るまで幸福が及ぶものである。不善を積めば、その家は後世まで災禍を受けるものである)とあるが、これは永遠に変わらない真理である。決して疑ってはならない。これを疑うのを、“迷い”というのだ。

米を蒔いて米が実り、麦を蒔いて麦が実るのは明らかなことで、毎年毎年変わらないことである。それは、天理だからである。

月日によって吉凶があるなどということは、決して信じてはいけない。信じなければならないのは、「積善の家に余慶あり」という金言である。しかし、「余慶」も「余殃」もすぐにやってくるものではない。百日で実る蕎麦があれば、秋に蒔いて夏に実る蕎麦もある。諺に「桃栗三年柿八年」というのと同じことだ。因果や応報にも、遅い、速いがあることを忘れてはならない。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

ここでは、真理を疑っている状態を“迷い”とし、真理を疑ってはならない。善を積んで始めて幸福、吉兆があり、それにも遅い、速いがあるのであると説かれています。高徳の僧の歌にあるように、「借りを返すか、今貸すか」という句も印象的でした。どうやって善を積んだらいいのか。実践しているのは「良い習慣」を「継続」させるということ。今は、身を修めることで精一杯でありますが、一つずつ「良い習慣」を増やし、継続させることで、善というものが、多少なりとも積めればと思っております。

また、先日、友人から頂いた「小さな経営論」という本にも、「開花に10年かかる人間の花」とありました。筆者の藤尾社長は、多くの偉人・賢人を見てこられ、その結果、人は花を咲かせるのに、10年くらいかかるとおっしゃっております。とても統計的な感想だと思います。成果・結果を焦らず、一歩一歩しっかりと歩んでいきたいと思います。

現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉 現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉
渡辺 毅
小さな経営論―人生を経営するヒント 小さな経営論―人生を経営するヒント
藤尾 秀昭

二宮尊徳の教え 其の十六 富裕者の心得

尊徳先生は、富裕者が心得なければならないことを以下のように説いています。

「論語」に「魯の哀公が有若(孔子の門徒)にお尋ねになった。『凶作で財政が足りないが、どうしたらいいだろうか』。有若がお答えしていうには、『いっそ一割の税になさってはどうでしょうか?』。『二割でも私は足りないというのに、なぜ一割にするのか』と再び哀公が尋ねると、有若はいった。『百姓が豊かになれば、殿様がひとり窮乏するはずがありません。百姓が窮乏すれば、殿様ひとりが豊かになるはずもありません』」とある。

これは、難解な理屈である。
これを例えてみると、鉢植えの松に、肥料が不足して、それが枯れようとしているときに、「これをどうしたらいいか」と問われて、「どうして枝を切らないのか」と答えるのと同じである。また、さらに「このままですら、枯れようとしているのに、どうして枝を切るのか」と尋ねて、「根が枯れなければ、木は誰とともに枯れようか」と答えたのに似ている。

これなら実に、疑いのない問答になる。
日本は六十余州の大きな鉢である。鉢は大きいけれども、肥料が不足したときは、無用の枝葉を切り取る他に道はない。人の財産も、それぞれ一つずつの小鉢である。生活費が不足したら、速やかに枝葉を切り取りなさい。このときに、「これは先祖代々のしきたりだ。家風だ。これは親が苦心して立てた別荘だ。これは特に大切にしてきた品物だ」などといって、無用の枝葉を切り捨てることをやらないと、たちまち枯れていってしまうものなのである。すでに枯れはじめてしまっては、枝葉を切り取っても間に合わない。これは、最も富裕者が心得なければならないことである。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

尊徳先生が「二宮翁夜話」の中で繰り返し唱えていることです。分限を守り、収入が減ったら、速やかに支出も減らせ。これが鉄則だと教えています。生活水準というものは、一度上げてしまうと、下げるのが難しいといわれますが、この確かなことを実践できないと、手遅れになってしまうといっています。これは、家計にも、会社の財務にも、国家の財政にも当てはまります。ある経営者が経営のコツを聞かれて、「分限の中でビジネスをしているだけで、何も難しいことはしていない」と答えていたのを何かで拝見した記憶があります。50の収入なら、25で生活し、10の収入なら5で生活するといった生活癖を付けていきたいと思いました。

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渡辺 毅

二宮尊徳の教え 其の十五 堯の喜び

昔、堯という中国の聖天子は国を厚く愛し、刻苦精励して国家を治めた。国民が歌った。「井戸を掘って水を飲み、田を耕してご飯を食べる。私たちは帝の力を少しも借りていない」

堯はこれを聞いて、大いに喜んだという。普通の人間なら、恩知らずといって怒るはずなのに、「私たちは帝の力を少しも借りていない」と歌うのを聞いて喜んだというのは、さすが聖天とされる堯である。

私の道は、この堯や舜も心を悩ましたといえる大道から生まれた道である。だから、私の道に従事して刻苦勉励して国を興し、村を興し、人々の困窮を救うことがあったときも、必ず人々が「報徳仕法(二宮金次郎のやり方)の力を少しも借りていない」と歌うはずである。そしてこのときこれを聞いて、喜ぶ者でなければ、わが一門の人間ではない。よくよく謹みなされ。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

まことの施しというのは、水のようなものだという教えなのでしょうか。
人に施しをした際、どうしてもその見返りや、名声を求めたくなったりしますが、尊徳先生は、堯のような姿勢が素晴らしいと教えています。

仏教の六波羅蜜にも、布施という徳を積む実践項目がありますが、無償の奉仕、提供ということを心掛けていけたらと思います。

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渡辺 毅

二宮尊徳の教え 其の十四 贅沢癖は生涯の大損

尊徳先生は、以下のように贅沢は生涯の大損ということを説明しています。

いくら財産が豊かで位が高くても、質素に暮らし、
驕った贅沢な生活を家法の中で厳しく禁じておかなければならない。
なぜなら、奢侈は、欲望によって利を貪る気持ちを増長させ、慈善の心も失わせてしまう。
そして自然に欲深くなり、ケチくさくなって、仕事の上でも不正を働くようになり、
その結果、災いも生じてくるのである。これは恐るべきことだ。

「論語」に「たとえ周公ほどの立派な才能があったとしても、傲慢でケチなら、
その他はどんなことでも見るに足りない
」とある。

家法において質素に暮らすことを定め、良くそれを守り、驕った贅沢な生活が習慣とならぬよう、
食事はご飯と汁物、着物は木綿とするのが、自らの身を助けるのだという真理を忘れてはならない。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

確かに、立身出世を果した人物には、質素な人が多いように感じます。
例えば、以前ご紹介した安田グループ創始者、安田善次郎氏は、この言葉の通り、
終生質素倹約に生き、着物は木綿だったと言います。

また、先日、会津藩校日新館にて論語の講義に出席しましたが、
若松ガス創始者の高木先生も当日着ていた背広は30年着ているとおっしゃっておりました。
(二宮尊徳のような生き方を見習っているとのこと。)

尊徳先生は、さらに以下のように続けています。

何事も習慣となり、それが平常のことになってしまっては仕方がないものだ。
遊楽に慣れてしまえばおもしろいこともなくなり、うまい物に慣れてしまえば、
うまい物もなくなってしまうだろう。
結局これは、自分で自分の喜びや楽しみを減らしてしまっているようなものだ。

毎日勤労する者には、朔望(一日と十五日)の休日も楽しみであり、
盆や正月になればそれはもう大きな楽しみである。
こんなふうに休日が楽しみになるのは、平日の勤労に慣れているからである。
この道理を明らかにして、滅亡の根本原因を取り除かなければならない。

そして若い者は、酒を飲むのも、煙草を吸うのも、
月に四、五回に限定して、酒好き、煙草好きになってはならない。
それに慣れて酒好き、煙草好きが癖になっては、生涯の大損である。
よく慎みなさい。

滅亡の原因となる習慣を減らし、無くして、
癖にならないように慎まなければならないと説かれています。

身を滅ぼすようなことが癖になってはいないか?
身を助けることが疎かになってはいないか?
毎日内省しなければならないと思いました。

※若い者は…のくだり、ドキッとさせられました(汗

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渡辺 毅

二宮尊徳の教え 其の十三 忠孝における“中”

親に対する孝行、主君に対する忠義における“中”というものは、どういうことか、説かれています。

聖人は“中”を尊ぶ。そしてその“中”というものは、ものによって異なっている。あるいは、そのものの中間に“中”がある場合がある。物差しの類がそれだ。平衡をとるところを“中”とする場合がある。秤のおもりがそれだ。熱からず、ぬるからずというのがお湯の“中”、甘からず、辛からずというのが味の“中”、損もなく、得もないのが取引の“中”である。盗人は盗むことを褒め、世の中の人は盗むことをとがめる、というようなことは“中”ではない。盗まず、盗まれないことが“中”といえる。この理は明白である。

では、忠孝においてはどうか。忠孝は他と我という相対関係の中で生ずる道である。親がいなければ、孝行をしたいと思ってもできない。主君がいなければ、忠義を尽くしたいと思ってもできない。だから、片寄らなければ至孝・至忠とは言い難い。家臣の思いが、主君のほうに片寄り極まって、至忠になる。子の思いが、親のほうに片寄り極まって、至孝となる。ここでいう「片寄る」とは、尽くす、ということをいうのである。あの偉大な舜が愚かな父瞽瞍(こそう)に尽くし、また楠木正成公が南朝に尽くしたことは、実にこの「片寄る」ことの極みであったといえよう。

このようになれば、鳥もちで鹿を取るように、天下の父母たる者、主君たる者に合わせようとして合わないことはない。忠孝の道は、ここに至って“中庸”となるのである。もし忠孝を、半分・中位のところとするなら、それは忠とも孝ともいえない。主君と親のためには、百石は百石、五十石は五十石で尽くさなければ、忠孝とはいえない。もし百石は五十石にして、半分だから“中”だというのは、はなはだしい間違いである。なぜなら、君臣で一つの円をなし、親子で一つの円をなしているからだ。主君があるときは、必ず家臣がある。親があるときは、必ず子がある。子がなければ、親とはいえず、主君がいなければ、家臣とはいえない。だから、主君も円の半分であり、家臣もその半分であり、親もその半分であり、子もその半分である。したがって最も片寄ったところを最高の到達点とするのである。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

平均、平衡、真ん中が“中”であるが、親子、君臣の場合は、親子で一つの円。君臣で一つの円をなし、その円の真ん中をとるのが“中”と説明されています。ということは、子は親に尽くしきって始めて「孝行」の中庸といえるし、家臣は君主に尽くしきって初めて「忠義」の中庸といえる。尽くしきって、“中”ということの説明がとてもわかりやすくしっくりきました。夫婦という点でもそうですが、孝行、忠義と言ったとき、まさにこのことを忘れずに接し、尽くせる人間になりたいと思いました。

親子・君臣・夫婦 中庸の図

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渡辺 毅

二宮尊徳の教え 其の十二 交際は囲碁将棋のように(交際のコツ)

交際は、人道上必要なことだが、「交際の道」は将棋や囲碁の作法を手本にするのがよい。将棋の作法では、実力のある者は、対戦相手の力に応じて持ち駒を減らし、相手の力とつりあう条件にしてから、さすということになっている。実力差が大きく開いているときは、たとえば歩三兵(ふさんびょう)というまでに持ち駒を外すのである。

これは、人が交際する上でも必要な作法である。自分が豊かな財産を持ち、才芸に恵まれ、学問がある場合、交際相手が貧しければ「豊かな財産」という持ち駒を外して交際しなさい。また、不才・無芸な相手なら「恵まれた才能」を外し、無学な相手なら「学問」を外して交際しなさい。これが、将棋をさすときの作法であり、このようにしなければ、交際はできないのである。

その反対に、自分が貧しくて、不才、無芸、無学なら、碁を打つように心得て交際しなさい。交際相手が豊かな財産を持ち、才芸、学問があれば、一目も二目も三目も置いて交際すればよい。これが、囲碁の作法なのだ。これらの作法は、将棋や囲碁だけではない。人と交際するときの道もまた、この作法に従わなければならないのである。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

人が交際する上での作法を、将棋や囲碁の作法と同じと説明しています。優れた相手に対し敬意を表して、「一目置く」という言葉が昔からありますが、昔の人達はこのような作法を持って交際していたのかなとしのばれます。相手より恵まれている場合は、将棋の作法を持って、その恵まれているものを外し、相手より恵まれていない場合は、囲碁の作法を持って、相手を一目、二目、三目と置く。自惚れず、傲慢にならず、また逆なら、引け目を感じ、遠慮することなく、目線を同じくして、人と交際していきたいと思いました。

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渡辺 毅

二宮尊徳の教え 其の十一 最高の孝

孝というのは、親の心をもって心として、親を安心させることにある。子たる者は、常日頃の行いや心がけがしっかりしているなら、たとえ遠国で奉公し父母に会えなくても、褒賞を受けた者がいると聞いて、その父母はそれがわが子でないかと喜び、また罪科を受けた者がいると聞いて、それはわが子ではあるまいと苦慮しない様子であれば、それは孝といえる。
反対に、罪科を受けた者がいると聞いたとき、それはわが子でないかと苦慮し、褒賞を受けた者がいると聞いたとき、それはわが子であるまいと喜ばない様子であれば、いかに日に月に父母の家に通って、その安否を尋ねても、それは不孝である。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

とても身に沁み入る教えです。

孝経に「親によく仕える者は、人の上にいても驕らず、人の下にいても心が乱れず、醜い風俗の場にいても争わない」とあり、また論語に「父母にはただ、自分の病気のことだけを心配させるようにしなさい」といっている。ここに、親子の情愛を見ることができる。世間の親たる者の深い愛情は、子供のために無病長寿、立身出世を願うほか、決して余念がないものである。だから、子たる者は、その親の心をもって心として親を安心させることこそが“最高の孝”といえるのだ。

孝の実践とは、親を心配し、親の元へ通うことのみを言うのではなく、身を修め、心を正して、立身出世に値する己を築きあげることにあるのだと思いました。幕末の志士、左内は、遠国にいた際も、「親の名すら世に知られるような成功を遂げる」という素志で行動していたといいます。そのような姿勢に習い、本当の意味での孝の実践を心掛けていきたいと思います。

現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉 現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉
渡辺 毅
啓発録―付 書簡・意見書・漢詩 (講談社学術文庫 (568)) 啓発録―付 書簡・意見書・漢詩 (講談社学術文庫 (568))
橋本 左内

二宮尊徳の教え 其の十 驕りと倹約の基準

世間の人は、貧富や驕(必要以上に贅沢なこと)、倹(無駄遣いをしないこと)について、口では簡単にいうが、何をもって貧と富、驕と倹を区別するのか、はっきりしていない。天下には、もとより大も限りがなければ小も限りがない。十石を貧しいといえば、無縁の者もいる。十石を裕福だといえば、百石の者もいる。百石を貧しいといえば、千石のものもいる。それなら、何によって貧富や大小を論じたらいいのだろうか。それはたとえば、物の売買のことを考えてみたらよくわかるだろう。物と値段とを比較してこそ、安値と高値を論ずることができる。物だけで、安い高いはわからないし、また値段だけでも安い高いを論ずることはできない。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

確かに、この世の中で何が貧で、何が富か、何が驕で、何が倹か、比較からしかわかりません。では、貧富、驕倹をしっかりと比較して論じているかと言ったら、感覚で論じられている部分が多いように感じます。

全体の収入が千石の村に戸数が百戸あるのなら、一戸につき十石という計算が成り立つが、これは自然な数である。これは貧でもなく富でもなく、大でもなく、小でもない。どちらにも偏っていない“中”だといえる。この“中”より不足していることを貧といい、この“中”を超えていることを富という。そして、この十石の家が九石で生活していくことを“倹”というし、十一石で暮らす事を“驕”というのだ。だから、私は常にこういうのだ。「“中”は“大小”や“増減”の基準となるところである」と。したがって、貧富は各村の石高の平均を定めて、驕倹はそれぞれの分限をもって論じるのがいいだろう。その分限によっては朝夕うまいものを食べ、綺麗な服を着ても、豪華な屋敷に住んでも、それは“驕”ではない。また、分限によっては米の飯や茶、煙草も“驕”になることがある。いい加減に驕倹を論じてはならない。

このように、“中”すなわち“驕”と“倹”の基準を説明しています。普通に考えたら、当たり前のことですが、何を持って驕とし、何を持って倹とするか、よりどころになる基準を改めて教えて頂いたように感じます。大きな視点を持って、その視点で“中”を捉え、驕らず、慎ましく生活したいと思いました。

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渡辺 毅
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