2010 年 2 月 9 日 |
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君子はその位(くらい)に素して行い、この外を願わず。
富貴に素しては富貴に行ない、
貧賤に素しては貧賤に行ない、
夷狄(いてき)に素しては夷狄に行ない、
患難(かんなん)に素しては患難に行なう。
君子入るとして自得せざるなし。
上位に在りては下(しも)を凌(しの)がず、
下位に在りては上(かみ)を援(ひ)かず、
己れを正しくして人に求めざれば、則(すなわ)ち怨(うら)みなし。
上は天を怨みず、下は人を尤(とが)めず。
君子は自分の立場や地位にこだわらず、
その時々の自分の境遇を受け入れて行動する。
そして、それ以上のことを求めない。
金持ちになればなったで、それにふさわしい行いをする。
貧乏であったとしても、不平も言わず悠々として生きる。
僻地や田舎に暮らしたとしても、その生活を楽しむ。
苦しく、困難な状況になったとしても、あわてず、
従容(しょうよう)としてそれを受け止める。
君子はどんな状況になっても、淡々としてその境遇を受け入れる。
上の立場にあっても、下の者をしいたげたり、
上から押さえつけたりしない。
下の立場であったとしても、上に媚(こ)びへつらったり、
取り入ったりしない。
自ら正しい道を歩み、他人に求めず、与えることを多くすれば、
人をうらやんだりしない。
天をうらまず、人をとがめてはいけない。
―中庸
現在の自分の状況に一喜一憂するのではなく、
素直に受け入れ、やるべきことをやっていく。
目指すべきを目指していく。
静かに志を暖め続けていきたいと思います。
2009 年 8 月 24 日 |
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孔子は「中庸」の中で誠をあがめ、超越的な力をそれに与えて、ほとんど神と同格であるとした。すなわち「誠なる者は物の終始なり。誠ならざれば物なし」と。
そして孔子が熱心に説くところによれば、誠は次の通りである。まず至誠は広々として深厚であり、しかも、はるかな未来にわたって限りがない性質をもっている。そして意識的に動かすことなく相手を変化させ、また意識的に働きかけることなく、みずから目的を達成する力を持っている。
と、稲造先生は解説しています。
中庸の書において、誠は「天の道」「天命」として基礎づけられました。孔子は論語の中で、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と絶賛しています。
武士にとって、嘘をつくこと、あるいは誤魔化しは、等しく「臆病」「弱さ」とみなされました。武士にとって「臆病」「弱さ」は不名誉であり、「二言」つまり二枚舌のために「死」をもって罪を償った物語は数多く残されています。よって、「武士の一言」は、断言したことが真実であることを十分に保証するものでありました。それが武士の誇りであったことは想像に難くありません。
「言」が「成」と書いて誠ですが、有言実行はもとより、「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」という孟子の言葉を噛みしめて生きていきたいと思います。
2009 年 5 月 15 日 |
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親に対する孝行、主君に対する忠義における“中”というものは、どういうことか、説かれています。
聖人は“中”を尊ぶ。そしてその“中”というものは、ものによって異なっている。あるいは、そのものの中間に“中”がある場合がある。物差しの類がそれだ。平衡をとるところを“中”とする場合がある。秤のおもりがそれだ。熱からず、ぬるからずというのがお湯の“中”、甘からず、辛からずというのが味の“中”、損もなく、得もないのが取引の“中”である。盗人は盗むことを褒め、世の中の人は盗むことをとがめる、というようなことは“中”ではない。盗まず、盗まれないことが“中”といえる。この理は明白である。
では、忠孝においてはどうか。忠孝は他と我という相対関係の中で生ずる道である。親がいなければ、孝行をしたいと思ってもできない。主君がいなければ、忠義を尽くしたいと思ってもできない。だから、片寄らなければ至孝・至忠とは言い難い。家臣の思いが、主君のほうに片寄り極まって、至忠になる。子の思いが、親のほうに片寄り極まって、至孝となる。ここでいう「片寄る」とは、尽くす、ということをいうのである。あの偉大な舜が愚かな父瞽瞍(こそう)に尽くし、また楠木正成公が南朝に尽くしたことは、実にこの「片寄る」ことの極みであったといえよう。
このようになれば、鳥もちで鹿を取るように、天下の父母たる者、主君たる者に合わせようとして合わないことはない。忠孝の道は、ここに至って“中庸”となるのである。もし忠孝を、半分・中位のところとするなら、それは忠とも孝ともいえない。主君と親のためには、百石は百石、五十石は五十石で尽くさなければ、忠孝とはいえない。もし百石は五十石にして、半分だから“中”だというのは、はなはだしい間違いである。なぜなら、君臣で一つの円をなし、親子で一つの円をなしているからだ。主君があるときは、必ず家臣がある。親があるときは、必ず子がある。子がなければ、親とはいえず、主君がいなければ、家臣とはいえない。だから、主君も円の半分であり、家臣もその半分であり、親もその半分であり、子もその半分である。したがって最も片寄ったところを最高の到達点とするのである。
(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉)
平均、平衡、真ん中が“中”であるが、親子、君臣の場合は、親子で一つの円。君臣で一つの円をなし、その円の真ん中をとるのが“中”と説明されています。ということは、子は親に尽くしきって始めて「孝行」の中庸といえるし、家臣は君主に尽くしきって初めて「忠義」の中庸といえる。尽くしきって、“中”ということの説明がとてもわかりやすくしっくりきました。夫婦という点でもそうですが、孝行、忠義と言ったとき、まさにこのことを忘れずに接し、尽くせる人間になりたいと思いました。

2009 年 3 月 30 日 |
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詩経に「錦を衣て絅を尚う(にしきをきてけいをくわう)」とあります。
錦は薄ものをすかしてこそ美しいと錦の華やかさが外に出るのをきらったものです。
そこで、君子のふみ行う道は人目を引かないで、それでいて日に日にその真価があらわれてくる。
はっきりと人目を引きながら、それでいて日に日に消え失せてしまうのではなく(表面的なのではなく)、何事も身近な地味なことから始めれば、進んで徳の世界に入ることができる。
(中庸:第十九章)
と中庸の最後の章で説かれていました。
内に省みてやましいところを持たず、心に恥じることもない。
そんな風に地道に慎んで修養し、内面をしっかりと磨きたいと思いました。
また、大学・中庸を読み終えて感じたことは、「慎む」という徳をとても重要なものとしていたことです。
今の社会で忘れがちになってしまっている徳のひとつだと思います。
日本人はこの美しい徳を元々内面に備えていることを誇りに思い、「君子は独りを慎む」とあるように、誰が見ていなくとも、自分の行いを謹んで、良心に恥じるようなことが無いよう、生き抜きたいと思いました。
2009 年 3 月 27 日 |
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「天地と三つに並んで対等」に続きますが、誠の働きというのは奥が深いことを知りました。
完全な誠のはたらきは継続的で止るときがない。
止るときがなければ長く続き、長く続けばその効果があらわれる。
効果があらわれたとなると、その誠の働きはどこまでもいつまでもはるかな遠くまで行き渡り(悠遠)、はるかな遠くまでゆきわたると、それは広々として上下に厚く行われ(博厚)、広々として上下に厚く行われると、それは高々として光明にあふれて行われる(高明)。
- 「博厚」であることは、万物をその上に載せる「大地」のはたらきである。
- 「高明」であることは、万物をその下に覆う「大空」のはたらきである。
- 「悠遠」であることは、万物を成り立たせる「天地」のはたらきである。
完全な誠のはたらきは、大地のはたらきと一致し、大空のはたらきと一致し、天地とひとしく、無限無窮ということである。
こうしたはたらきは、それをことさらに見せびらかしているのではないのに、はっきりとあらわれ、ことさらに動かしているのではないのに、おのずからに変化し、ことさらな作為をするのではないのに、全てが自然に成し遂げられる。
(中庸:第十四章)
このように説かれています。
天地自然のような絶えることの無い慈悲に溢れたはたらきに、己の誠をいかに近づけていくか。
止まず追求していくか。大きな目標になります。
また、重要なのはやはり誠を「継続」させるということです。
継続こそが、結果を生み出す第一の条件だということを改めて認識させられました。
2009 年 3 月 26 日 |
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天の道としての誠が完全に身に備わっていて、そこから本当の善をはっきりと見抜いていくのを、それを本性そのままのことという。
反対に、本当の善をはっきり認識して、それを積みあげていってそこから完全な誠にゆきつくのを、それを道を修める教えのことという。
前者は自然な天の道としての聖人のこと、後者は人の行うべき道として教えをうける人のことである。
しかし、誠であればおのずからはっきりした善の認識が得られるように、本当の善をはっきり認識していけばまた誠も完全に身に備わるものだ。
(中庸:第十二章)
誠が完全に身に備わっていない自分としては、まさに、後者であらんと日々努力あるのみだと思っております。人の行うべき道。善の認識。これらをしっかりと身に修め、最終的に誠が身に備わればと思っております。
後者も最終的にはゆきつくところは聖人と同じになりえるのだと、「中庸」では続いています。また、天の道の誠を身に備え、本性をいかんなく発揮する人物は、天地自然と対等になりえるのだとも説いています。
本性を十分に発揮させることができれば、人にも物にも本性を働かせる事ができるようになる。それは天地自然の造化育成を助けていることになり、天地自然の造化育成を助けられるとなれば、天地と三つに並んで対等に立ったことになるのである。
(中庸:第十二章)
まさに、そのような境地に達する事ができれば本望です。
天地自然の中で生きていることをかみ締め、人間関係の中で生きていることをかみ締め、その中で最善でありたいと思っております。
2009 年 3 月 25 日 |
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何事でもひろく学んで知識をひろめ、詳しく綿密に質問し、慎重にわが身について考え、明確に分析して判断し、丁寧に行き届いた実行をする。
まだ学んでいないことがあれば、それを学んで十分になるまで決してやめない。まだ質問していないことがあれば、それを問いただしてよく理解するまで決してやめない。まだよく考えていないことがあれば、それを思索して納得するまで決してやめない。まだ分析していないことがあれば、それを分析して明確になるまで決してやめない。まだ実行していないことがあれば、それを実行して十分に行き届くまで決してやめない。
他人が一の力でできるとしたら、自分はそれに百の力を注ぎ、他人が十の力でできるとしたら、自分はそれに千の力を出す。もし本当にそうしたやり方ができたら、たとい愚かな者でも必ず賢明になり、たとい軟弱な者でも必ずしっかりした強者になるであろう。
(中庸:第十一章)
学んでから実行するまでのプロセスの中で、特に私が注意しなければならないポイントがあります。慎重にわが身について考え、そして明確に分析するという点です。
「思い立つ→行動」という脳みそに優しい行動パターンで懲りずに色々失敗をしてきました。
「丁寧に、慎重に、わが身について考える」「よくよく分析して判断する」思いを巡らすことが足りず色々と迷惑をかけてきました。
「かくあるべし」と覚悟を決めたからには、その意に反することはせず、知行が己の志に基づいた人生を一時も怠ることなく歩んでいきたいと思います。
2009 年 3 月 24 日 |
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中庸の書では、五達道・三達徳という、世の中どこでも通用する5つの道と、世の中どこでも通用する3つの徳があると言います。
世界中いつでもどこでも通用する道として五つのことがあり、それを実践するための手段として三つのことがある。
君臣との間の道、父子との間の道、夫婦との間の道、兄弟との間の道、そして友達同士の間の道、この五つが、世界中にあまねく通用する道である。
また、知と仁と勇との三つが、世界中にあまねく通用する徳(もちまえ:身についた才能)であって、五つの道を実践するための手段となるものである。
(中庸:第八章)
五達道、孟子で言う五倫と同じ五つの人間関係。
この五つの具体的な人間関係が人倫(人として従う道)を律する徳目として掲げられています。
また、三達徳とは、論語で言う「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず」の三つの徳。
- 知者は、道理を熟知しているので(その是非、正邪を判断することができるので、事に臨んで)惑わない。
- 仁者は、道理に則っているので(一点の私心もなく、己の分を尽くし人としての道を行うので煩悶もなく、すべての物事に対して)憂えない。
- 勇者は、道理を弁(わきま)えているので(心が大きく強く、道義にかない虚心坦懐であるから、何事に遭遇しても)尻込みしない。
知仁勇の三つを弁えたなら、わが身の修め方がわかる。わが身の修め方がわかれば、人を治めるその治め方もわかる。人の治め方がわかれば、天下や国や家の治め方もわかる。
(中庸:第八章)
基本となる人間関係を大切にして過ごし、知仁勇を少しでも弁えて生きていけるよう慎んで生きたいと思いました。
2009 年 3 月 23 日 |
No Comments | タグ: 中庸, 大学, 孔子, 庸徳, 庸言, 金谷治
中庸の書に、孔子が君子のふみ行うべき道は四つあり、私はいまだその一つもうまく行えていない。と語っている章があります。
第一には、自分の子にこうあってほしいと望むことを、自ら行ってそれで親にお仕えするということ。
第二には、自分の家臣にこうあってほしいと望むことを、自ら行ってそれで君主にお仕えするということ。
第三には、自分の弟にこうあってほしいと望むことを、自ら行ってそれで兄にお仕えすること。
第四には、自分の友達にこうあってほしいと望むことを、まず自分のほうから先に行うということ。
いずれも、まだよく出来ていない。
(中庸:第三章三節)
とても、身近で分かりやすい徳目ですが、それを当たり前のこととして一つ一つ実行していくのはやはり難しいようです。
平凡で当たり前の徳(庸徳)を実行し、平凡で当たり前のことば(庸言)を慎重にして、そうやって過ごしていきたいと思いました。