天地と三つに並んで対等
天の道としての誠が完全に身に備わっていて、そこから本当の善をはっきりと見抜いていくのを、それを本性そのままのことという。
反対に、本当の善をはっきり認識して、それを積みあげていってそこから完全な誠にゆきつくのを、それを道を修める教えのことという。
前者は自然な天の道としての聖人のこと、後者は人の行うべき道として教えをうける人のことである。
しかし、誠であればおのずからはっきりした善の認識が得られるように、本当の善をはっきり認識していけばまた誠も完全に身に備わるものだ。
(中庸:第十二章)
誠が完全に身に備わっていない自分としては、まさに、後者であらんと日々努力あるのみだと思っております。人の行うべき道。善の認識。これらをしっかりと身に修め、最終的に誠が身に備わればと思っております。
後者も最終的にはゆきつくところは聖人と同じになりえるのだと、「中庸」では続いています。また、天の道の誠を身に備え、本性をいかんなく発揮する人物は、天地自然と対等になりえるのだとも説いています。
本性を十分に発揮させることができれば、人にも物にも本性を働かせる事ができるようになる。それは天地自然の造化育成を助けていることになり、天地自然の造化育成を助けられるとなれば、天地と三つに並んで対等に立ったことになるのである。
(中庸:第十二章)
まさに、そのような境地に達する事ができれば本望です。
天地自然の中で生きていることをかみ締め、人間関係の中で生きていることをかみ締め、その中で最善でありたいと思っております。
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大学・中庸 金谷 治 |
