2010 年 2 月 25 日 |
No Comments | タグ: 修身教授録, 森信三, 西郷隆盛, 遺訓
森信三先生曰く「われわれは苦労することによって、
自分の『お目出たさ』を削りとってもらうんです。
現実の世界は決してお目出たくはないのです。」
最近、つくづく自分はお目出たい人間だなと感じます。
今までそれをポジティブだとか勘違いしていたところが多分にあります。
事が起こると良かれ悪かれ、自分の都合の良いように
考えることは良い事でも何でもありません。
それは、自分可愛さゆえの逃げでしかありません。
西郷南州翁遺訓26条には下記のようにあります。
己を愛するは、よからぬことの第一なり。
修行の出来ぬも、事の成らぬも、
過ちを改むることの出来ぬも、
功にほこり驕慢の生ずるも、
みな自ら愛するがためなれば、
決して己を愛せぬものなり。
自分へのお叱りかと思う教訓です。
自分に厳しくするというのは、言うは安しですが、
しかし、それでも出来ない自分にそう言い続け、
実際に何か一つでも行動せねば前には一歩も進めません。
続く27条に、
過ちを改めむるに、自ら過ったとさえ思いつかば、
それにて善し、そのことをば棄てて顧みず、直ちに一歩踏み出すべし。
この言葉に勇気をもらい、常に一歩を踏み出す他ありません。
退歩することのないよう日々少しでも前進していきたいと思います。
2010 年 2 月 24 日 |
No Comments | タグ: 修身教授録, 森信三
綱渡りが喝采を受けるのは、なるほど途中でも
喝采は受けましょうが、しかし真の喝采となると、
どうしても向こう側へ着いてからでないと、
真の喝采とは言えないでしょう。
と言うのも、もしも万一のことがあったならば、
途中での喝采はたちまち無効になるからです。
そこで真に間違いのない喝采となると、やはり首尾よく
綱を渡り終えてからでないといけないわけです。
同様に今、人間の真価が本当に認められるのも、
綱を渡り終えたところ、即ち亡くなってからのことでしょう。
しかし、その真価は、死後にあるのではなくて、
実に生前の生活そのものにあることを忘れてはならぬのです。
結局一口に申せば、その人の一生が、いかほど誠に
よって貫かれたか否かの問題でしょう。
―と、森信三先生は仰っております。
とてもわかりやすい例えでした。
いくら、途中までは努力していたとしても、
最後まで渡りきらなければ全くそれまでの努力は
無効となるのです。
綱渡りは一瞬の油断も、停滞も出来ません。
油断したら落ちるし、立ち止まっても落ちる。
まるで人生そのものです。
そして、死んで初めてその真価が評されるというのも
全くその通りだと思いました。
自分は、人生という綱の上にいることをよくよく
イメージして、一歩一歩をより慎重に、そして、
止まることなく、歩いて行かなければと思います。
2010 年 2 月 23 日 |
No Comments | タグ: 無私, 稲盛和夫, 西郷隆盛
コンプレックスなどを別にして、
とかく自分のことが大好きなのが人間です。
自分愛するあまり、随所で自分に甘えが出ます。
病気など生理的にどうしようもないことはありますが、
自分に言い訳をしてまで、甘えることがありはしないか。
ちょっと反省しただけでも、いくつ指を折らねば
ならないか、、、情けなく思います。
稲盛会長は、無私になれぬ人間に上に立つ資格は
ないと仰っておりました。
組織は一つの生命体です。
トップはブレーンです。
トップが組織のことを考えていなければ、
だれが組織のことを考えるのか。
トップが組織のことを考えていない間があるとすれば、
それはその組織(生命体)が意識を失っているということになる。
だから、トップというものは四六時中組織のことを
考えているし、自分というものはもはや無いものと
思えとまで言い切り、徹しきれないものにトップの
資格はないとまで仰っておりました。
上に立って仕事をするということはそれだけ
責任や自覚の伴うことだということを改めて知ります。
それに比べて自分の甘さにぐうの音も出ません。
西郷隆盛も、
「人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる」
と言っています。
自分は愛してはいけないと説いています。
自分を愛するということは、怠慢、傲慢、甘えなど
様々な弊害が出ることを知っているからです。
自分の「我」や「あく」を落とさなければと痛感します。
2010 年 2 月 22 日 |
No Comments | タグ: アサヒビール, ビール, 中條高徳, 立志, 立志の経営, 経営
アサヒビールが長い間の低迷から、生き残りを掛けて
戦い、復活する様子を中條名誉顧問の「立志の経営」で読みました。
日本のビールの歴史は浅く、初めてビールが日本へ
入ってきたのは明治に入ってからでした。
その後、明治20年代までにかけて、一時は100社前後
まで中小ビール会社が膨らみ、それらが淘汰・統合
されて明治39年には4社になりました。
大阪麦酒、札幌麦酒、日本麦酒、ジャパン・ブルワリーです。
これらがさらに統合し、大日本麦酒(大阪、札幌、日本)と
麒麟麦酒(ジャパン・ブルワリー)になりました。
大日本麦酒はシェアの70%を持つ名門企業になりました。
しかし、戦後、GHQの経済力過度集中排除法により、
大日本麦酒は朝日麦酒(現:アサヒ)と日本麦酒(現:サッポロ)
に分割されました。
シェアはこのとき、朝日麦酒が36%、日本麦酒が39%、
麒麟麦酒が25%という具合でした。
しかし、この分割以降、朝日麦酒は年々シェアを落とし、
昭和50年には10%前後になってしまいます。
反対に麒麟麦酒は以降、シェアを急激に拡大し60%以上と
なっていました。
このままでは倒産しかねないということで、朝日は生き残りを
かけた変革を求められました。
その際に、ビールの原点に立ち返って考えた結果、
「ビールは生だ」という結論に至りました。
というのも、それまでは、濾過技術の遅れにより、
ビールはラガー(熱処理したもの)が一般的で、
生は回転の早い夏場でしか味わえないものでした。
よって、ビールはラガーというのが通説になっており、
それを疑う者はいない状況でした。
しかし、技術者達に聞いて回ると、皆口をそろえて
生が一番美味しい。と言います。
では、通年、生でビールを飲めるようにしようじゃないかと。
商品開発して、満を持して発表したのが「コク・キレ」であり、
昭和62年の「スーパードライ」であったのです。
以降、アサヒは息を吹き返し今ではまたキリンとトップシェアを
争うようになっています。
ここで、気付くことは、、、古くから「これが当たり前」と
思われていた商品が、実は提供者側の都合で、真に消費者の
立場に立った物作りが出来ていないということは結構あるのでは
ないかという点です。
また、どれだけシェアが偏って、圧倒的大差がついていようとも
諦めず、強い志を持って取り組めば為らざるものは無し。
ということが分かりました。
たとえば、携帯音楽市場のアップルやOSのMicrosoftなど、
一見これらの市場ではもう逆転するのは不可能と誰もが
思ってしまいますが、実はそんなことはないのかもしれない
という思いも沸いてきます。
とにかく、中條名誉顧問も終始仰っていることですが、
「強い志」が有り得ないことを実現していく、一番の
大元になるということです。
志。しかと定めていかなければと改めて思いました。
2010 年 2 月 18 日 |
No Comments | タグ: 修身教授録, 森信三, 気品
森信三先生は一人の人間が出来上がる上で、
最も重要な三大要素は「血、育ち、教え」である。
と仰っています。
血とは、血統のことであり、遺伝。
育ちとは、その人の生い立ち。
教えとは、その人の心を照らす光。
家庭における躾は「育ち」に入るので、
教えとは、家庭以外での教育である。
と説明しています。
森先生曰く、
一人の人間が出来上がるには、これらの三大要素が
それぞれ大切ですが、とくにこのうちの前の二つは、
根強い力を持ち、それ故、この「血」と「育ち」に
対しては、よほど立派な教えを聞き、さらにまた
自分としても相当努めたつもりでいましても、
この血と育ちに根ざした人間の「あく」というものは、
なかなか容易なことでは抜けないのです。
国民教育者として、「教え」を大切にしている森先生
だからこそ、あえて「血」の話しも出しました。
「血」、「遺伝」というものの強さを認めるということは、
修養に取り組む者の出鼻を挫く恐れがあることを承知で
三大要素の一部であり、とりわけ根強いものと断言しております。
それゆえ、血や育ちの良さからくる気品というものは、
いわばおのずからというべきところがあり、一々自ら
意識せずとも、おのずから立派な言動となります。
気品を身に付けるというのは非常に難しいことで、
生涯修養しても身に付けることのできない者もいます。
むしろ、身に付けることができない者のほうが多いくらいです。
だからこそ、そうした気品ある人の所業を平素から
良く観察することが重要であり、かつ、自らの言動の
上における「血」や「育ち」からくる「卑しさ」に
気付かなければなりません。
その気付きは「教え」によってもたらされます。
自らを照らす光である教えがあって、初めて
自らの「卑しさ」「醜さ」に気付くことができると
言います。
さらには、このような自分の醜さのよってくるところが、
遠くその血と育ちとに根差すものだということに
気付くに至って、教えの光は、ようやく自己の骨髄に
染み込みかけたというでしょう。と。。。
「血」と「育ち」に根差す人間の「あく」というものは、
若い頃からよほどの決意を持ってその除去に取り組むので
なければ、おそらくは生涯かかっても、抜き去りえない
でしょう。と。。。
森先生にしてここまで言わしめるのだから、相当の
覚悟と努力がないかぎり、人間の「あく」抜きという
のは困難なことなのだと思います。
しかし、ようやく自分の「あく」というものが掴めて
きました。もう二十台も終わりに差し掛かっておりますが、
生涯をかけたあく抜き作業。抜ききるに至らなくとも、
気付いた「あく」は取り除いていきたいと思います。
最後に、先生曰く。
気品とは人間の修養上、最大の難物である。
これは、多くの偉人を見た人物からも同じ言葉を
聞きました。養いがたいもの。
気品には遠く及ばずとも、道しるべとして、
比較対象の根本としてこれからも歩んで行きたいと思います。
2010 年 2 月 12 日 |
No Comments | タグ: 修身教授録, 森信三
量り得ぬ 無限の良知が そこにある
されど我が身の あまりの無知よ
良書を手にすると、非常に感動します。
その本に納められている智恵に感動します。
偉大な人物に出会ったかのような縁を感じます。
そして、読み終わると自分のあまりの無知を知ります。
もっともっと学んで自分の血肉にせねばと思います。
学んだことをしゃべってみると案外まともに話せない
自分がいます。
そんな自分を見ると、あぁ。腑まで落ちていない
んだろうなと感じます。
それが歯痒くて悔しいのですが、しょうがありません。
何度も何度も、繰り返し学ぶに如かずです。
古典大学に格物致知とあるように、実体験に基づいて
本当の知識、胆職にしていかなければなりません。
胆職でもって、活躍するその日を夢見て。
今は努力するしかありません。
森信三先生も「修身教授録」の中で、人は40歳までが
準備期間だと仰っています。
20歳までに志を立て、40歳まで準備をしっかりとして、
60歳まで天下、国家のために働く。
40歳は人生の半ば、ちょうど登山でいう、山頂についた
ところです。
山頂に立てば、今までの道も省みることができ、
これからの道のおおよその着地点も見ることができます。
すなわち、人生の終着点への過程をおおよそ思い描ける
ということだと仰っています。
それまでは、国家、社会のためにしっかりと働けるよう
日々準備をしていかなければと思います。
こういった気付きを、まるで直接教えて頂いているような
気になる。それが良書なのだなと感じます。
2010 年 2 月 10 日 |
No Comments | タグ: 整理, 整頓, 清掃
鍵山先生の講演を聴いて、本を読んで以来、意識が向いているせいか、
至る所で整理、整頓、清掃といったキーワードを目にします。
とある、町工場が社運を呼び込むきっかけとなった
のもまさに3Sだったとその工場の社長が語っておりました。
3Sのコツがそれぞれ紹介されていたのでまとめました。
まずは整理。
整理は、必要なものと不要なものを区別して、
不要なものを捨てるところから始まります。
捨てるというのは案外難しく、溜まる一方ということもしばしばあります。
不要なものの線引きの一つの目安としては、
半年以上使っていないものと定義することだと仰っていました。
半年以上使っていないものは、躊躇無く捨てる。
これがまず第一段階。
次に整頓。
整頓は、整理されて残ったものを使いやすいように、
いつでも誰でも、必要なものをすぐに取り出せるように並べておくこと。
「いつも同じ場所」「いつも同じ量」「いつも同じ向き」
に置くのがコツだそうです。
これが第二段階。
この町工場は、整頓の段階で、1日30分、1年で1ヶ月も
費やしていた道具を探す時間を節約できたということでした。
最後は清掃。
清掃は、ゴミ、チリ、ホコリなし。
汚れなしのピカピカの状態にし、維持することです。
この町工場は、毎朝10分、工場を6ブロックに分けて、
その内の1ブロックを集中的に皆で掃除をするそうです。
すると短時間で1ブロックが綺麗になり、また、人が
皆そこに集まるので、コミュニケーションも生まれたと仰っていました。
掃除道でイエローハットの鍵山先生も仰っておりましたが、
掃除をすると、場の雰囲気、場の「氣」が変わるとあります。
ただ、勿論、整理、整頓、清掃だけで仕事が成功する
わけではありません。人生が成功するわけではありません。
しかし、怠ってはならない重要な基本であることに違いありません。
仕事に追われ、基本を疎かにすることのないよう、
気を付けて生活していかなければと思います。
2010 年 2 月 9 日 |
No Comments | タグ: 中庸
君子はその位(くらい)に素して行い、この外を願わず。
富貴に素しては富貴に行ない、
貧賤に素しては貧賤に行ない、
夷狄(いてき)に素しては夷狄に行ない、
患難(かんなん)に素しては患難に行なう。
君子入るとして自得せざるなし。
上位に在りては下(しも)を凌(しの)がず、
下位に在りては上(かみ)を援(ひ)かず、
己れを正しくして人に求めざれば、則(すなわ)ち怨(うら)みなし。
上は天を怨みず、下は人を尤(とが)めず。
君子は自分の立場や地位にこだわらず、
その時々の自分の境遇を受け入れて行動する。
そして、それ以上のことを求めない。
金持ちになればなったで、それにふさわしい行いをする。
貧乏であったとしても、不平も言わず悠々として生きる。
僻地や田舎に暮らしたとしても、その生活を楽しむ。
苦しく、困難な状況になったとしても、あわてず、
従容(しょうよう)としてそれを受け止める。
君子はどんな状況になっても、淡々としてその境遇を受け入れる。
上の立場にあっても、下の者をしいたげたり、
上から押さえつけたりしない。
下の立場であったとしても、上に媚(こ)びへつらったり、
取り入ったりしない。
自ら正しい道を歩み、他人に求めず、与えることを多くすれば、
人をうらやんだりしない。
天をうらまず、人をとがめてはいけない。
―中庸
現在の自分の状況に一喜一憂するのではなく、
素直に受け入れ、やるべきことをやっていく。
目指すべきを目指していく。
静かに志を暖め続けていきたいと思います。
2010 年 2 月 8 日 |
No Comments | タグ: プラトン
最高の勝利は自分を乗り越えることだ。
自分に負けることは、あらゆることの中でもっとも恥ずべきことである。
―プラトン
自分に負けそうになることがしばしばあります。
自分の立てた誓いや目標に対して、挫けそうになることがあります。
しかし、自分にだけは負けてはならない。
といつもギリギリのところで踏み止まります。
成功者は、「成功する方法は簡単だ。
誰よりも努力したらいい。」と言います。
勿論、誰よりも努力をしたら成功すると思います。
しかし、それ以前に、自分にだけは負けない自分を
作らなければならないと思います。
成功を増やすより、失敗を減らしていけたらと思います。
2010 年 2 月 5 日 |
No Comments | タグ: 善因善果, 悪因悪果, 管仲論, 自因自果, 蘇洵
功の成るは成るの日に成るにあらず、
けだし必ず由(よ)って起こる所あり。
過(わざわい)の作(おこ)るは作るの日に
作るにあらず、また必ず由って兆(きざ)す所あり。
(蘇洵、管仲論より)
人はある日突然成功するわけではありません。
しかるべき種まきがされていてこそ成功します。
また、禍も同じで、人に禍が起きるとき、
必ずどこかでその種がまかれています。
良い種も悪い種も巻くのは自分自身です。
良い種とは、素直、謙虚、感謝、努力などの
日常の行動や姿勢です。また、楽しんだり、
笑ったりという明るい表現です。
悪い種とは、不平や不満、愚痴、嫉妬や怒り、
怠惰、不正、暴力などの行動や姿勢、表現です。
種を巻いたら、良かれ悪かれ芽が出ます。
善因善果、悪因悪果、自因自果。
悪い種巻きを減らし、良い種を巻くことを
心掛けていきたいと思います。