2009 年 12 月 28 日 |
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今年は論語はじめ儒教に関する本を多少読みましたが、群を抜いて面白かった、分りやすかったのが下村湖人先生の論語物語でした。
論語に出てくる孔子や孔子の門徒達を登場人物として、論語に書かれた教訓を物語風の短編小説にして描いています。
よく、論語読みの論語知らず。ということが言われますが、論語の教訓は門徒それぞれの性格や個性に応じて孔子が言われたことでありますので、それぞれ門徒自身のことも合わせて考慮する必要があります。
その点、下村先生の論語物語は門徒の性格や個性が滲み出たストーリーになっており、そのストーリーの流れの節々で孔子や高弟から教訓が語られます。
この教訓は、こんな流れの中から出てきたものだったかもしれないと考えることは非常に楽しいものでした。
楽しい物語ではありますが、ただ「楽しかった」ということではなく、登場してくる不完全な門徒と自分を重ね合わせ、それぞれのシチュエーションで同じような過ちをするであろう自分を戒めていきたいと思います。
今年は冒頭でも述べたように、多少本を読みましたが、そんな自分に良い教訓があったので最後にそれをもって締めくくりたいと思います。
前略「子路などは、その点では非常に感心なところがあって、一つの善言を聞いて、まだそれを実行することができないうちは、他の善言を聞くことを恐れるといった具合じゃ。真に道を求める者は、そのくらいの真面目さがあっていい、と私は思っている。」
(子路聞くことありて、未だこれを行うこと能わずんば、唯聞くことあらんことを恐る。)
今年は自分のキャパをはるかに超えた善言を聞いてきました。
知りて行なわざるは、ただこれ未だ知らざるなり。
一つ一つの善言を確実にものにしていくべく、来年は「実行」の一年にしたいと思います。
2009 年 12 月 24 日 |
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雪夜の月天に当たれば、心境はすなわち澄徹す。
春風の和気に遇えば、意界もまたおのずから沖融す。
造化人心は、混合して間(へだて)なし。
参考:菜根譚 (タチバナ教養文庫) 吉田公平
雪の積もった明月の夜には、心境も清らかに澄みとおる。
のどかな春風に吹かれると、気持ちも和らぎなごむ。
自然と人間の心とは、一つにとけあってへだてがない。
雪が降り積もって、あたり一面が真っ白に化粧した日、周りに遮るもののない場所で、晴れた空に向かって雪の上に寝転び、深呼吸をして、身体の力を抜くと、、、
まさに自然と一つになった感覚を覚えます。
ただただ笑いがこみ上げてきます。
時には何も考えず、ゆだねるがままに自然に溶け込み、心に余裕を持たせることも必要だなと思いました。
2009 年 12 月 22 日 |
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禅宗に曰く、「饑え来たりて飯を喫し、倦み来たれば眠る」。詩旨に曰く、「眼前の景致、口頭の語」。けだし極高は極平に寓し、至難は至易に出で、有意のものはかえって遠く、無心のものはおのずから近きなり。
参考:菜根譚 (タチバナ教養文庫) 吉田公平
禅の極意に言う、「腹が減れば飯を食い、腹がくちくなれば眠る」と。
また、詩の極致に言う「ただ目前の景色を写し、ふだん用いる言葉で述べる」と。
思うに、最も高遠なことは、最も平凡なことに宿り、最も至難なことは、最も平易なことから出てくる。ことさら意を用いたものは、返って真実に遠ざかり、無心なものの方が、返って自然と真実に近いものである。
平凡なことの中から、真実を見出していくこと。
ことさらに意を用いずに、真実を表現していくこと。
考えてしまうと難しく感じますが、あるがままに捉え、あるがままに表現する。
そんな自在の境地に達することができるよう、日々、真実に目を向けて行きたいと思います。
2009 年 12 月 21 日 |
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山林の楽しみを談(かた)る者は、いまだ必ずしも真に山林の趣を得ず。
名利の談を厭う者は、いまだ必ずしも尽(ことごと)く名利の情を忘れず。
参考:菜根譚 (タチバナ教養文庫) 吉田公平
田舎暮らしの楽しみを口にする者は、まだ、田舎暮らしのおもむきを本当には会得していない。
名利の話をきらう者は、まだ名利を求める心をすっかり忘れさってはいない。
意識は捉われ。
無意識の意識というのか、ごく自然に名利を離れ、田舎を楽しむというようにありたいと思います。
2009 年 12 月 18 日 |
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世人は心の肯(うけが)うところをもって楽しみとなし、かえって楽心に引かれて苦処にあり。
達士は心の払(もと)るところをもって楽しみとなし、ついに苦心のために楽しみを換え得来たる。
参考:菜根譚 (タチバナ教養文庫) 吉田公平
世の人は、自分でしたいと思うことを楽しみとするので、かえって、その楽しもうとする余りに苦しいめにあう。道に達した人は、意に染まないことでも楽しみとするので、結局、苦しみの心が楽しいものにかわっている。
楽しもうとすることのみを「楽しみ」にしてしまうと、楽しみ以外は苦しいことも多く、一番の楽しみを存分にやれていながら、不満が残る人生になってしまうかもしれません。しかし、自分の身に起きる良いこと、悪いこと含めて全てを楽しむという心づもりであれば、苦しみすら楽しみにかえていけるのではないかと思います。
言うはやすしの話ではありますが、自分以外に自分の人生の舵取りを行える人はいないのだという自覚を持つと、折角なら全てを楽しんでやろうじゃないか。という気持ちが自然と起こってくるものかなと思います。
そして、全てを楽しもうと決めたならば、全てを受け入れるという心の広さや強さを養っていかなければなりません。
心を養う過程をも楽しんで、人生の達人に少しでも近づけるよう日々精進して行きたいと思います。
2009 年 12 月 17 日 |
No Comments | タグ: 洪自誠, 菜根譚
功業に誇逞(こてい)し、文章を炫燿(げんよう)するは、皆これ外物によりて人となるなり。知らず、心体は螢然(えいぜん)として、本来失わざれば、たとえ寸功隻字なきも、またおのずから堂々正々、人となるの処あるを。
参考:菜根譚 (タチバナ教養文庫) 吉田公平
功業を人にほこり、学問を見せびらかすのは、みな後天的に取得した物に頼って人間として生きているにすぎない。この人たちは知らないのだ、心の本体が玉の輝くように明らかで、本来の光りを失わなかったならば、たとえ少しの功業もなく、一字も読めなくとも、正々堂々たる人間として生きて行けるということを。
人間はもともと素の状態で美しい心を持っているはずです。
赤ちゃんの純粋無垢な目を見て、美しいと思わない人がいないように。
その本来持っている玉の輝きを、曇らせることなく生きることが出来たならば、そこに何の体裁が必要だろうかと説いています。
また、こうもあります。
栄位ゆえに世の人がわたしを尊ぶのは、高い冠や大きな帯のためである。微賎ゆえに世の人が私を侮るのは、木綿の衣服とわらぐつのためである。そうとすれば、もともと私を尊ぶのではないから、どうして喜んだりしようか。もともと私を侮るのではないから、どうして腹を立てたりしようか。
飾られた外面、飾られない外面、外見で判断されるなら、一喜一憂する必要はありません。
自分の心を観ていく。
自分の心に恥じることはないだろうか。
自分の心に偽りはないだろうか。
善なる心に誠実に生きていきたいと思いました。
2009 年 12 月 16 日 |
No Comments | タグ: 大智度論, 抜苦与楽, 洪自誠, 稲盛和夫, 経営, 菜根譚, 龍樹
水は波だたざれば則ち自ら定まり、鑑(かがみ)は翳(くも)らざれば則ち明らかなり。
故に心は清くすべきことなし。
そのこれを混(にご)らすものを去れば、清(せい)自ら現る。
楽しみは必ずしも尋ねず、そのこれを苦しむるものを去れば、楽しみ自から存す。
参考:菜根譚 (タチバナ教養文庫) 吉田公平
水は波さえ立たなければ自然に静まる。
鏡は曇らなければ自然に明るい。
心は無理に清くすることはない。
心を濁らすものを取り去れば、清らかさが自然に現れる。
楽しみは必ずしも外に求めなくてもよい。
心を苦しめるものを取り去れば、楽しみが自然にそこにある。
先日同様、ここでも他に何かを求めていくのではなく、本来備えている清らかさ、楽しみというものにフォーカスしています。
つくづく感じることですが、先ず最初に何かを加えたり、与えたりするよりも、不要なもの、苦しみを生むものを除くことが最優先・最重要なのだなと思いました。
今まで、加えたり、与えたりすることの多かった人生ですが、これは大きな教訓となりました。
龍樹の著、大智度論(だいちどろん)にある、抜苦与楽(大慈与一切衆生楽、大悲抜一切衆生苦)はそんな意味で私にとって衝撃的なメッセージでした。
苦しみを抜いて安楽を与える。
今思えば当たり前のことなのですが、まずは、苦しみを抜くことが肝心であり、楽は自ずとついてくるのです。与楽が最初にあると、それは単なる自己満足になりかねません。
足すより、引く。
そのことをもっと自分に馴染ませていきたいと思います。
追伸:
「利益を求めるな。利益を求めるのではなく、売り上げを最大にし、経費を最小に抑える努力をする。そうすれば、利益は自ずとついてくる。」と、稲盛和夫氏が経営に関して仰っていたことを思い出しました。
これも非常に当たり前のことなのですが、完璧に実践できているか?と問われると、うーん。となってしまいます。特に、今のような不況下では、売り上げの最大化(足す)より、経費の最小化(引く)が優先されます。
足すより引く。(しつこいw)
出費も多い年末ですが、無駄遣いを減らしたいと思います。
2009 年 12 月 15 日 |
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私恩を市るは、公議を扶くるに如かず。
新知を結ぶは、旧交好を敦くするに如かず。
栄名を立つるは、隠徳を種うるに如かず。
奇節を尚ぶは、庸行を謹むに如かず。
参考:菜根譚 (タチバナ教養文庫) 吉田公平
私的な恩義をおしつけるよりは、公論を支持した方がよい。
新しいひとと友人になるよりは、古い友人とのよしみをたしかなものにした方がよい。
名声を立てるよりは、かげで陰徳を施した方がよい。
並はずれた節義を尊ぶよりは、日常の振舞いを慎む方がよい。
特別に何かを求めていくより、今あるものを大切にするほうがよいと説いています。
「いまここ」というような禅の境地は知る由もありませんが、「いまあるもの」「いま行われていること」をもっともっと大切にして生活するべきだと思います。
何か特別な必要はありません。
今ある、今している、確かなことをより確かにしていきたいと思います。
2009 年 12 月 11 日 |
No Comments | タグ: 愚者, 洪自誠, 生き方, 菜根譚, 賢者
意を曲げて人をして喜ばしむるは、躬(み)を直くして人をして忌ましむるにしかず。
善なくして人の誉れを致(まね)くは、悪なくして人の毀(そし)りを致くにしかず。
参考:菜根譚 (タチバナ教養文庫) 吉田公平
信念をまげて人を喜ばせるよりは、わが身を正しくして人に嫌われた方がよい。
よいことをしていないのに人に褒められるよりは、悪いことをしていないのに人にそしられる方がよい。
人から喜ばれることだからといって、どんなことでもしていいのかといったら、そうではありません。
信念を貫き、身を正しくして、それで、人から嫌われるようであるならば、それもやむなし。と説いています。
人から喜ばれることというのは、誰でもついしたくなってしまいますが、信念に基づき、厳然たる態度をとる必要がありますし、そのためにはまず、確固たる信念、「生き方」を持っていなければなりません。
身の正しいあり方は、先人が色々教えてくれています。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。という言葉もありますし、経験から学ぶことが愚かなことだということも身を持って経験(笑)したがゆえ、先人の教えから正しい「生き方」というものを追求していけたらと思います。
2009 年 12 月 10 日 |
No Comments | タグ: 品格, 庸行, 庸言, 気品, 洪自誠, 菜根譚
貧家も浄(きよ)く地を払い、貧女も浄く頭を梳(くしけず)れば、景色は艶麗ならずと雖も、気度は自からこれ風雅なり。士君子、一たび窮愁寥落に当るも、奈何ぞ輙ち(すなわ)自から廃止せんや。
参考:菜根譚 (タチバナ教養文庫) 吉田公平
あばら屋でも綺麗に掃き清め、貧しい女でも綺麗に髪をとかしておれば、見た目はあでやかでなくとも、気品はもちろん風雅(すてき)である。
一人前の男として、たとい、困窮や失意にみまわれたとしても、どうしてすぐに投げやりにしてよかろうか。
「品」というものは、富んでいるから必ずあるものではなく、貧しくとも日々の心掛けによって備えることができるものだということです。
そうだとするなら、恵まれない環境においてどうして自分を疎かにすることができるでしょうか。
品格を養うために修養するわけではありませんが、庸言庸行(日常の言葉、行い)を正し、慎ましく生活していくことを心掛けたいと思います。