2009年3月

粗食のすすめ

食に関しては、小学生の頃から意識し始めるようになりました。

小学4年後半~6年中盤まで慢性腎炎で入院していたためでしょうか。
腎炎は食事・運動制限の厳しい病気で(というのも、病気の原因がハッキリしていないかららしいのですが)、とにかく食べるものには気を付けさせられました。
塩分は摂り過ぎるな、たんぱく質は摂り過ぎるな、諸々。

そんなこともあって、食は気を付けなければならない危うい問題だ。
という認識がすり込まれました。

マクロへの興味もそんな事が理由ではありますが、ともかく、現代の食生活というのは見ていて恐ろしいです。栄養学の知識も無ければ、正しい食の知識もありませんが、ひしひしと肌で感じています。

そんなことで手に取ったのが「粗食のすすめ」。
日本食が身体にいいことは何となく知ってはいても、洋食を豊かさの象徴のように求め続けてきた日本としては、すぐにまた「日本食」に戻れないことも理解できます。また、そうしたくても社会のシステムがそうしずらくなっていたりします。

現代の食生活が抱える三つの問題
一、米を食べなくなった日本人
二、食生活が欧米化した日本人
三、栄養素にこだわりすぎる日本人

著者の幕内秀夫氏はこんな問題提起をしています。
現代栄養学を学び医療現場で多くの病人食を作り、戦後生まれの日本人が洋食過多で多くの病気を抱えている姿を見てきた幕内氏にとって、食の改善は訴えずにはいられない問題だったようです。

まだ、読み始めたばかりですが、なぜ粗食が、日本食が身体にいいのか、実践(は、妻に任せて)を通しながら理解していきたいと思っています。

粗食のすすめ (新潮文庫) 粗食のすすめ (新潮文庫)
幕内 秀夫
粗食のすすめ レシピ集 粗食のすすめ レシピ集
幕内 秀夫

本当に美しいもののあり方

詩経に「錦を衣て絅を尚う(にしきをきてけいをくわう)」とあります。
錦は薄ものをすかしてこそ美しいと錦の華やかさが外に出るのをきらったものです。

そこで、君子のふみ行う道は人目を引かないで、それでいて日に日にその真価があらわれてくる。
はっきりと人目を引きながら、それでいて日に日に消え失せてしまうのではなく(表面的なのではなく)、何事も身近な地味なことから始めれば、進んで徳の世界に入ることができる。

(中庸:第十九章)

と中庸の最後の章で説かれていました。

内に省みてやましいところを持たず、心に恥じることもない。
そんな風に地道に慎んで修養し、内面をしっかりと磨きたいと思いました。

また、大学・中庸を読み終えて感じたことは、「慎む」という徳をとても重要なものとしていたことです。
今の社会で忘れがちになってしまっている徳のひとつだと思います。
日本人はこの美しい徳を元々内面に備えていることを誇りに思い、「君子は独りを慎む」とあるように、誰が見ていなくとも、自分の行いを謹んで、良心に恥じるようなことが無いよう、生き抜きたいと思いました。

大学・中庸 大学・中庸
金谷 治

誠の働きは天地自然と一致する

「天地と三つに並んで対等」に続きますが、誠の働きというのは奥が深いことを知りました。

完全な誠のはたらきは継続的で止るときがない。
止るときがなければ長く続き、長く続けばその効果があらわれる。
効果があらわれたとなると、その誠の働きはどこまでもいつまでもはるかな遠くまで行き渡り(悠遠)、はるかな遠くまでゆきわたると、それは広々として上下に厚く行われ(博厚)、広々として上下に厚く行われると、それは高々として光明にあふれて行われる(高明)。

  • 「博厚」であることは、万物をその上に載せる「大地」のはたらきである。
  • 「高明」であることは、万物をその下に覆う「大空」のはたらきである。
  • 「悠遠」であることは、万物を成り立たせる「天地」のはたらきである。

完全な誠のはたらきは、大地のはたらきと一致し、大空のはたらきと一致し、天地とひとしく、無限無窮ということである。
こうしたはたらきは、それをことさらに見せびらかしているのではないのに、はっきりとあらわれ、ことさらに動かしているのではないのに、おのずからに変化し、ことさらな作為をするのではないのに、全てが自然に成し遂げられる。

(中庸:第十四章)

このように説かれています。

天地自然のような絶えることの無い慈悲に溢れたはたらきに、己の誠をいかに近づけていくか。
止まず追求していくか。大きな目標になります。
また、重要なのはやはり誠を「継続」させるということです。
継続こそが、結果を生み出す第一の条件だということを改めて認識させられました。

大学・中庸 大学・中庸
金谷 治

天地と三つに並んで対等

天の道としての誠が完全に身に備わっていて、そこから本当の善をはっきりと見抜いていくのを、それを本性そのままのことという。
反対に、本当の善をはっきり認識して、それを積みあげていってそこから完全な誠にゆきつくのを、それを道を修める教えのことという。
前者は自然な天の道としての聖人のこと、後者は人の行うべき道として教えをうける人のことである。
しかし、誠であればおのずからはっきりした善の認識が得られるように、本当の善をはっきり認識していけばまた誠も完全に身に備わるものだ。

(中庸:第十二章)

誠が完全に身に備わっていない自分としては、まさに、後者であらんと日々努力あるのみだと思っております。人の行うべき道。善の認識。これらをしっかりと身に修め、最終的に誠が身に備わればと思っております。

後者も最終的にはゆきつくところは聖人と同じになりえるのだと、「中庸」では続いています。また、天の道の誠を身に備え、本性をいかんなく発揮する人物は、天地自然と対等になりえるのだとも説いています。

本性を十分に発揮させることができれば、人にも物にも本性を働かせる事ができるようになる。それは天地自然の造化育成を助けていることになり、天地自然の造化育成を助けられるとなれば、天地と三つに並んで対等に立ったことになるのである。

(中庸:第十二章)

まさに、そのような境地に達する事ができれば本望です。
天地自然の中で生きていることをかみ締め、人間関係の中で生きていることをかみ締め、その中で最善でありたいと思っております。

大学・中庸 大学・中庸
金谷 治

正しい知行のプロセス・継続は力なり

何事でもひろく学んで知識をひろめ、詳しく綿密に質問し、慎重にわが身について考え、明確に分析して判断し、丁寧に行き届いた実行をする。

まだ学んでいないことがあれば、それを学んで十分になるまで決してやめない。まだ質問していないことがあれば、それを問いただしてよく理解するまで決してやめない。まだよく考えていないことがあれば、それを思索して納得するまで決してやめない。まだ分析していないことがあれば、それを分析して明確になるまで決してやめない。まだ実行していないことがあれば、それを実行して十分に行き届くまで決してやめない。

他人が一の力でできるとしたら、自分はそれに百の力を注ぎ、他人が十の力でできるとしたら、自分はそれに千の力を出す。もし本当にそうしたやり方ができたら、たとい愚かな者でも必ず賢明になり、たとい軟弱な者でも必ずしっかりした強者になるであろう。

(中庸:第十一章)

学んでから実行するまでのプロセスの中で、特に私が注意しなければならないポイントがあります。慎重にわが身について考え、そして明確に分析するという点です。

「思い立つ→行動」という脳みそに優しい行動パターンで懲りずに色々失敗をしてきました。
「丁寧に、慎重に、わが身について考える」「よくよく分析して判断する」思いを巡らすことが足りず色々と迷惑をかけてきました。

「かくあるべし」と覚悟を決めたからには、その意に反することはせず、知行が己の志に基づいた人生を一時も怠ることなく歩んでいきたいと思います。

大学・中庸 大学・中庸
金谷 治

生きる上で押さえる5つの道と3つの徳

中庸の書では、五達道三達徳という、世の中どこでも通用する5つの道と、世の中どこでも通用する3つの徳があると言います。

世界中いつでもどこでも通用する道として五つのことがあり、それを実践するための手段として三つのことがある。
君臣との間の道、父子との間の道、夫婦との間の道、兄弟との間の道、そして友達同士の間の道、この五つが、世界中にあまねく通用する道である。
また、知と仁と勇との三つが、世界中にあまねく通用する徳(もちまえ:身についた才能)であって、五つの道を実践するための手段となるものである。

(中庸:第八章)

五達道、孟子で言う五倫と同じ五つの人間関係。
この五つの具体的な人間関係が人倫(人として従う道)を律する徳目として掲げられています。

また、三達徳とは、論語で言う「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず」の三つの徳。

  • 知者は、道理を熟知しているので(その是非、正邪を判断することができるので、事に臨んで)惑わない。
  • 仁者は、道理に則っているので(一点の私心もなく、己の分を尽くし人としての道を行うので煩悶もなく、すべての物事に対して)憂えない。
  • 勇者は、道理を弁(わきま)えているので(心が大きく強く、道義にかない虚心坦懐であるから、何事に遭遇しても)尻込みしない。

知仁勇の三つを弁えたなら、わが身の修め方がわかる。わが身の修め方がわかれば、人を治めるその治め方もわかる。人の治め方がわかれば、天下や国や家の治め方もわかる。

(中庸:第八章)

基本となる人間関係を大切にして過ごし、知仁勇を少しでも弁えて生きていけるよう慎んで生きたいと思いました。

大学・中庸 大学・中庸
金谷 治

当たり前のことを当たり前のように(庸徳・庸言)

中庸の書に、孔子が君子のふみ行うべき道は四つあり、私はいまだその一つもうまく行えていない。と語っている章があります。

第一には、自分の子にこうあってほしいと望むことを、自ら行ってそれで親にお仕えするということ。
第二には、自分の家臣にこうあってほしいと望むことを、自ら行ってそれで君主にお仕えするということ。
第三には、自分の弟にこうあってほしいと望むことを、自ら行ってそれで兄にお仕えすること。
第四には、自分の友達にこうあってほしいと望むことを、まず自分のほうから先に行うということ。

いずれも、まだよく出来ていない。

(中庸:第三章三節)

とても、身近で分かりやすい徳目ですが、それを当たり前のこととして一つ一つ実行していくのはやはり難しいようです。

平凡で当たり前の徳(庸徳)を実行し、平凡で当たり前のことば(庸言)を慎重にして、そうやって過ごしていきたいと思いました。

大学・中庸 大学・中庸
金谷 治

立志のはじまり ~本日:志講習会 初回特別講演~

幕末に一人の若い優秀な志士がいました。
24歳の若さで藩校の幹事となり、藩主に近侍し、政治問題に取り組み、その優秀さ故、安政の大獄で26歳にして早世した越前国福井藩士の橋本左内
西郷隆盛が終生その死を惜しんだ逸材でした。

彼が15歳のときに書した「啓発録」は有名です。

当時にして早くも、忠孝、立志の大切さを理解しておりました。

武士にとって主君、両親は大切なもの、だから自分の身を粗末にせず、武芸、学問に励み、その奥義を極め、歴史に名を残しているような聖賢君子、英雄豪傑のようになり、主君のために働き、天下国家の役に立ち、父母の名すら世に知られるような成功をとげ、なすことなく一生を終えるような、つまらぬ者には決してなるまいと思いつくはずだ。それが立志のはじまりである。

「自分が何をやりたいのかわからない」という若者の悩みを良く耳にしますが、僕の恩師もよく言われている「誰のために何をなすのか」。
それが志の元にあることが非常に重要なのだと改めて思いました。

本日は、いよいよ東京にて志講習会の初回講演を開催致します。
皆さんにとって、少しでも得るものがある勉強会になればと思っています。

啓発録―付 書簡・意見書・漢詩 (講談社学術文庫 (568)) 啓発録―付 書簡・意見書・漢詩 (講談社学術文庫 (568))
橋本 左内

身の回りを整えること

林先生のメルマガに駒沢大学陸上競技部の大八木監督のお話がありました。

大八木監督は調べてみるとなんと会津若松市河東出身。
駒沢大学の陸上部を13年間指導しており、過去13回の大会では総合優勝回数6回という驚異的な数字を誇っています。
09年。勝って当たり前となった駒沢がまさかの14位でシード落ち。
それだけに今年の駅伝では沿道の観衆から色々と罵声を浴びたようでした。

そんな監督が、学生にまず何から指導したかというと、「履物を揃えること」だったそうです。

心を整えるには、まず形から入るのが一番だということでした。

身辺を整えることは、心を正すことに通じ、
心を正すことは身を修めることに通じる。

目標が駅伝優勝と決まっているなら、後は心を正して、身を修めるべく慎み、励むことでしょうか。

「夢をかなえるゾウ」ではありませんが、身の回りを整えるということは、以外と出来ていなかったりします。

靴は脱ぎっぱなしになっていないか、部屋は散らかっていないか。

そんなことを注意して日々丁寧に生活したいと思いました。

夢をかなえるゾウ 夢をかなえるゾウ
水野敬也
大学・中庸 大学・中庸
金谷 治

当たり前のことなんてない

人にしてもらうこと、その好意や親切に当たり前なんてものはない。

親の好意。親族の好意。パートナーの好意、友人の好意。知人の好意。他人の好意。

親切を当たり前と思ってはいないか。
好意を「何々してあげたのだから。」と当然のように思ってはいないか。

自分は改めて注意が必要だと思いました。

当たり前と思っているところに「感謝の気持ち」は生まれません。
感謝の気持ちがなければ、人はおろか、お天道様も微笑みかけてはくれません。

良いことがあったら人様のお陰、悪いことがあったら自分の責任

まさにその通りだと思います。

「生かされていることに感謝」という境地にはまだまだ至れませんが、感謝の気持ちを忘れがちな自分がいることを自覚し、感謝の気持ちを意識的に表現していきたいと思いました。

PS.嫁は人に必ず3回感謝の気持ちを述べると決めているそうです。
僕も真似して人にあったら最初に感謝の気持ちを表現するということを実践しよう。

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