二宮尊徳の教え 其の十七 積善の家に余慶あり

尊徳先生は、禍福吉凶について以下のように述べています。

方位によって禍福を論じ、月日によって吉凶を説くということが昔からある。世間の人はこれを信じているけれども、そんな道理があるはずがない。禍福吉凶は、方位や月日によって決まるものではない。それは迷信である。仏教では「本来東西という方角などない」とさえいっている。禍福吉凶は、それぞれ自分の心と行いが招くところにやってくるのであり、また、過去の因縁によってやってくるのである。

ある高徳の僧が強盗に遭ったときの歌に、「前の世の 借りを返すか今貸すか 何れ報いは 有るとこそしれ」と詠んだ通りであろう。絶対に迷ってはいけない。強盗は鬼門から入ってはこない。悪日だけに来るのでもない。戸締りを忘れたら、入ってくるものと思いなさい。火の用心を怠れば、火事が起こるだろう。試しに、戸を開けておくがいい。犬が入ってきて、食べ物をあさるだろう。これは、明白なことだ。

易経に「積善の家に余慶あり、不積善の家に余殃(よおう)あり」(善行を積み重ねた家には、必ず子々孫々の後に至るまで幸福が及ぶものである。不善を積めば、その家は後世まで災禍を受けるものである)とあるが、これは永遠に変わらない真理である。決して疑ってはならない。これを疑うのを、“迷い”というのだ。

米を蒔いて米が実り、麦を蒔いて麦が実るのは明らかなことで、毎年毎年変わらないことである。それは、天理だからである。

月日によって吉凶があるなどということは、決して信じてはいけない。信じなければならないのは、「積善の家に余慶あり」という金言である。しかし、「余慶」も「余殃」もすぐにやってくるものではない。百日で実る蕎麦があれば、秋に蒔いて夏に実る蕎麦もある。諺に「桃栗三年柿八年」というのと同じことだ。因果や応報にも、遅い、速いがあることを忘れてはならない。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

ここでは、真理を疑っている状態を“迷い”とし、真理を疑ってはならない。善を積んで始めて幸福、吉兆があり、それにも遅い、速いがあるのであると説かれています。高徳の僧の歌にあるように、「借りを返すか、今貸すか」という句も印象的でした。どうやって善を積んだらいいのか。実践しているのは「良い習慣」を「継続」させるということ。今は、身を修めることで精一杯でありますが、一つずつ「良い習慣」を増やし、継続させることで、善というものが、多少なりとも積めればと思っております。

また、先日、友人から頂いた「小さな経営論」という本にも、「開花に10年かかる人間の花」とありました。筆者の藤尾社長は、多くの偉人・賢人を見てこられ、その結果、人は花を咲かせるのに、10年くらいかかるとおっしゃっております。とても統計的な感想だと思います。成果・結果を焦らず、一歩一歩しっかりと歩んでいきたいと思います。


現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

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