二宮尊徳の教え 其の十三 忠孝における“中”

親に対する孝行、主君に対する忠義における“中”というものは、どういうことか、説かれています。

聖人は“中”を尊ぶ。そしてその“中”というものは、ものによって異なっている。あるいは、そのものの中間に“中”がある場合がある。物差しの類がそれだ。平衡をとるところを“中”とする場合がある。秤のおもりがそれだ。熱からず、ぬるからずというのがお湯の“中”、甘からず、辛からずというのが味の“中”、損もなく、得もないのが取引の“中”である。盗人は盗むことを褒め、世の中の人は盗むことをとがめる、というようなことは“中”ではない。盗まず、盗まれないことが“中”といえる。この理は明白である。

では、忠孝においてはどうか。忠孝は他と我という相対関係の中で生ずる道である。親がいなければ、孝行をしたいと思ってもできない。主君がいなければ、忠義を尽くしたいと思ってもできない。だから、片寄らなければ至孝・至忠とは言い難い。家臣の思いが、主君のほうに片寄り極まって、至忠になる。子の思いが、親のほうに片寄り極まって、至孝となる。ここでいう「片寄る」とは、尽くす、ということをいうのである。あの偉大な舜が愚かな父瞽瞍(こそう)に尽くし、また楠木正成公が南朝に尽くしたことは、実にこの「片寄る」ことの極みであったといえよう。

このようになれば、鳥もちで鹿を取るように、天下の父母たる者、主君たる者に合わせようとして合わないことはない。忠孝の道は、ここに至って“中庸”となるのである。もし忠孝を、半分・中位のところとするなら、それは忠とも孝ともいえない。主君と親のためには、百石は百石、五十石は五十石で尽くさなければ、忠孝とはいえない。もし百石は五十石にして、半分だから“中”だというのは、はなはだしい間違いである。なぜなら、君臣で一つの円をなし、親子で一つの円をなしているからだ。主君があるときは、必ず家臣がある。親があるときは、必ず子がある。子がなければ、親とはいえず、主君がいなければ、家臣とはいえない。だから、主君も円の半分であり、家臣もその半分であり、親もその半分であり、子もその半分である。したがって最も片寄ったところを最高の到達点とするのである。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

平均、平衡、真ん中が“中”であるが、親子、君臣の場合は、親子で一つの円。君臣で一つの円をなし、その円の真ん中をとるのが“中”と説明されています。ということは、子は親に尽くしきって始めて「孝行」の中庸といえるし、家臣は君主に尽くしきって初めて「忠義」の中庸といえる。尽くしきって、“中”ということの説明がとてもわかりやすくしっくりきました。夫婦という点でもそうですが、孝行、忠義と言ったとき、まさにこのことを忘れずに接し、尽くせる人間になりたいと思いました。

親子・君臣・夫婦 中庸の図


現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

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