二宮尊徳の教え 其の十 驕りと倹約の基準

世間の人は、貧富や驕(必要以上に贅沢なこと)、倹(無駄遣いをしないこと)について、口では簡単にいうが、何をもって貧と富、驕と倹を区別するのか、はっきりしていない。天下には、もとより大も限りがなければ小も限りがない。十石を貧しいといえば、無縁の者もいる。十石を裕福だといえば、百石の者もいる。百石を貧しいといえば、千石のものもいる。それなら、何によって貧富や大小を論じたらいいのだろうか。それはたとえば、物の売買のことを考えてみたらよくわかるだろう。物と値段とを比較してこそ、安値と高値を論ずることができる。物だけで、安い高いはわからないし、また値段だけでも安い高いを論ずることはできない。

(参考:現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

確かに、この世の中で何が貧で、何が富か、何が驕で、何が倹か、比較からしかわかりません。では、貧富、驕倹をしっかりと比較して論じているかと言ったら、感覚で論じられている部分が多いように感じます。

全体の収入が千石の村に戸数が百戸あるのなら、一戸につき十石という計算が成り立つが、これは自然な数である。これは貧でもなく富でもなく、大でもなく、小でもない。どちらにも偏っていない“中”だといえる。この“中”より不足していることを貧といい、この“中”を超えていることを富という。そして、この十石の家が九石で生活していくことを“倹”というし、十一石で暮らす事を“驕”というのだ。だから、私は常にこういうのだ。「“中”は“大小”や“増減”の基準となるところである」と。したがって、貧富は各村の石高の平均を定めて、驕倹はそれぞれの分限をもって論じるのがいいだろう。その分限によっては朝夕うまいものを食べ、綺麗な服を着ても、豪華な屋敷に住んでも、それは“驕”ではない。また、分限によっては米の飯や茶、煙草も“驕”になることがある。いい加減に驕倹を論じてはならない。

このように、“中”すなわち“驕”と“倹”の基準を説明しています。普通に考えたら、当たり前のことですが、何を持って驕とし、何を持って倹とするか、よりどころになる基準を改めて教えて頂いたように感じます。大きな視点を持って、その視点で“中”を捉え、驕らず、慎ましく生活したいと思いました。


現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉

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