菜根譚に学ぶ「外見に捉われるな」

功業に誇逞(こてい)し、文章を炫燿(げんよう)するは、皆これ外物によりて人となるなり。知らず、心体は螢然(えいぜん)として、本来失わざれば、たとえ寸功隻字なきも、またおのずから堂々正々、人となるの処あるを。

参考:菜根譚 (タチバナ教養文庫) 吉田公平

功業を人にほこり、学問を見せびらかすのは、みな後天的に取得した物に頼って人間として生きているにすぎない。この人たちは知らないのだ、心の本体が玉の輝くように明らかで、本来の光りを失わなかったならば、たとえ少しの功業もなく、一字も読めなくとも、正々堂々たる人間として生きて行けるということを。

人間はもともと素の状態で美しい心を持っているはずです。
赤ちゃんの純粋無垢な目を見て、美しいと思わない人がいないように。
その本来持っている玉の輝きを、曇らせることなく生きることが出来たならば、そこに何の体裁が必要だろうかと説いています。

また、こうもあります。

栄位ゆえに世の人がわたしを尊ぶのは、高い冠や大きな帯のためである。微賎ゆえに世の人が私を侮るのは、木綿の衣服とわらぐつのためである。そうとすれば、もともと私を尊ぶのではないから、どうして喜んだりしようか。もともと私を侮るのではないから、どうして腹を立てたりしようか。

飾られた外面、飾られない外面、外見で判断されるなら、一喜一憂する必要はありません。

自分の心を観ていく。

自分の心に恥じることはないだろうか。
自分の心に偽りはないだろうか。

善なる心に誠実に生きていきたいと思いました。

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