毎日の当たり前に意識を―森信三先生に学ぶ

明治から平成にかけて活躍した、森信三先生という偉大な教育者がいます。

雑誌(致知9月号)の中で紹介されていた先生の言葉があります。

森信三諸君は階段を昇るとき、まるで廊下でも歩くように、さらさら昇る工夫をしてごらんなさい。というのも人間の生命力の強さは、ある意味ではそうしたことによっても、養われると言えるからです。
階段の途中に差しかかって、急に速度がにぶるようでは、それはその人が、心身ともにまだ生命力が弱い証拠と言ってもよいでしょう。と申すのも、この場合階段というものが、やがて人生の逆境にも通ずると言えるからです。

日頃、階段を登っているときに、人生の逆境のことを考えているかといったら考えてはいません。

むしろ、エスカレーターやエレベーターを探してしまうという始末。

身体の健康のためにと階段を選ぶことはあっても、人生の苦難をあたかも廊下を歩くように、平然と突き進むことを考えて階段を登るということは意識したことがありません。

しかし、森信三先生の発言から、ささいなことへの日々の心掛けというのは、生きることへの真剣さ、覚悟の現れなのだと思いました。

どこまでド真剣に生きることを考えているか。
ド真剣だからこそ階段を登るときのことすら意識してしまうのではないかと思います。

また、こうも言っております。

森信三真に意義ある人生を送ろうとするなら、人並みの生き方をしているだけではいけないでしょう。それには、少なくとも人の一倍半は働いて、しかも報酬は、普通の人の二割減くらいでも満足しようという基準を打ち立てることです。

意義ある人生というものを本気で考えているからこそ、自分に厳しくすることが重要なのだと思います。

自分に厳しくなろうと思っても、ついつい甘えが出てしまいます。

どうしてこんなに自分は甘いのだろうと辟易してしまいます。

大それたことを毎日課してそれをこなしていくのではなく、日々の何気ない事を繊細に意識し、大切に過ごしていくことが最初の一歩目なのだと改めて気付かされました。

森信三先生は二宮尊徳翁の書「二宮翁夜話」にて学問的開眼を得られたと書いてあります。

音もなく香もなく常に天地は、書かざる経を繰り返しつつ

寸暇も惜しんで書物を読んだ二宮尊徳翁は、極意は書には無く、天地自然にあるといっています。

当時の天地自然というのは実生活そのもの。

真理は現実の只中にあり。です。

今まさに生きているこの現実の何気ないことも一つひとつ意識して、その意図をしっかりと汲んで生きていきたいと思います。

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