繁栄の本は、足元にあり

安岡正篤先生の「人間学のすすめ」という本を読み郷学のもつ意味を改めて考えさせられました。

日本精神の頽廃―民族の第一義は精神である

安岡正篤今日の日本、明日の日本というものを考えた時、なんとも言い知れぬ大きな危惧を抱かざるを得ないのであります。まかり間違ったならば、おそらくここ数年の日本は収拾すべからざる混乱に陥って、相当期間暗黒時代・恐怖時代が来ないとも限らない。(安岡正篤)

昭和40年に安岡先生は仰っております。

今日本は、安岡先生が発案した(との説)「平成」という元号ではありますが、昭和40年以降危うい状態を繰り返しここまできました。そして、未だ安定した国家の基盤を作り得ていない状態であります。

アメリカの占領政策によって骨抜きとなった日本の現状、教育の荒廃、道徳の頽廃を憂い、当時より今後の日本を非常に心配されていました。

そうした中、唯一日本が救われるにはどうしたらよいか。
物質では絶対に救われない、精神でなければ救われないと仰っております。

経済や産業も現実的には重要な問題ではあります。
しかし、永遠という性命からみると、それはとてもはかないものです。
先生は、何が民族であるか、という民族の第一義に立てば、いかにして精神、民族精神を養ったかが全てと主張しております。

郷学―心の根を培養する

安岡正篤人間、民族、人類というものは、栄えようと思ったならば、まず何よりも根に返らなければいけない。草木でも、本当に健やかに繁茂させようと思ったならば、悪戯に枝葉を伸ばしては駄目でありまして、幹を逞しくし、根を深く養わなければなりません。根に返ることが大事であります。(安岡正篤)

人が根に返ると言った場合それは何になるか。それは、郷土の歴史に返ることだと説いています。

安岡正篤郷土の歴史に返るということは、郷土の人々が心の根を培養することである。これが将来ここの人々、及びその子孫にどれだけ影響を与えるか、まことに計り知れないものがあるのであります。そういうことが全国的に行われる時に、日本民族はどんなに栄えるかわからない。(安岡正篤)

日本には、ヨーロッパで英雄扱いされたレベルの人物が各藩に数多くいたと思っています。新渡戸稲造先生の「武士道」によると、武士の妻でさえ、英雄と同様の精神レベルを有していたとも言えるかもしれません。(大袈裟かもしれませんがw)

郷学はやがて国学となり、人類の学となっていくと先生は主張しております。

日本の学は、人類の学となるポテンシャルを秘めていると思っています。
日本の精神は、人類の精神となり得る、誇りあるものを持っていると思っています。

自分は自分が生まれたこの日本という国を知りません。
19年間育ってきた信州諏訪・茅野のことを知りません。
それ以降の大半を過ごしている会津のことも知りません。

そんな人間がどうして自分のことを知っているでしょうか。
自分のことを知らないと言っているようなものです。
(実際、自分のことをまるで分かっていません)

縁を頂いた郷に学び、己の所以を知り、それを如何に育むか、今後意識して生活していきたいと思います。

追記 「為す」より「あれ」

安岡正篤人間にとって根本のことは、我々が何を為すかということではなくて、我々が何であるかということを発見することである。これは西洋も東洋も同じことであって、西洋でも立派な哲学者はつとにこれを解明しておる。名高い言葉に「how to do good(いかに善を為すか)」ということよりも、「how to be good(いかに善であるか)」ということの方が大事である、というのがありますが、人間の第一義は、何を為すかということではなくて、何であるかということである。(安岡正篤)

昔も今も、「何を為すか?」という夢や志が、人物としての指標のように捉えられがちですが、「為す」ことを語る前に「あれ」というのは古典を読んでも明らかな道理です。身の引き締まるご指摘に改めて敬服する次第でした。

このように日本に生きた偉大なる人物の教えを学ぶことも一つの郷学だと実感するところです。


人間学のすすめ

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