武士道の名誉―苦痛と試練に耐えるために

不名誉はその人を大きく育てる

新渡戸稲造「人を人たらしめている部分、そしてそれを差し引くと残るのは獣性しかない」という考えは当然のことと思われた。その高潔さに対するいかなる侵害も恥とされた。そして「羞恥心」という感性を大切にすることは、武士の幼少時の教育においても、まず始め行われた。(新渡戸稲造)

「人様に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」「恥を知れ」という言葉が子供に対して良く使われました。

恥は、すべての徳、立派な行い、および優れた道徳の土壌となるものでした。

孟子曰く「羞悪の心は義の端なり」とあります。
悪を恥じ憎む心が義の始まりだと言っています。
また、江戸時代の儒者、新井白石は「不名誉は樹の切り傷のごとく、時はこれを消さず、かえってそれを大ならしむるのみ」と言い、その人格を傷つけられることを拒絶しました。

名誉はこの世で「最高の善」である

新渡戸稲造・名誉は「境遇から生じるものではなく」、それぞれが自己の役割をまっとうに努めることにあるのだ、ということに気付いているのは、ごくわずかの高徳の人びとだけである。

・若者が追求しなければならない目標は、富や知識ではなく、名誉である。
(新渡戸稲造)

「錦を飾る」までは「故郷に帰れない」「帰ってくるな」というのは、数十年前の若者、また送り出す家族のスタンダードでした。

また、もし名誉や名声が得られるならば、生命自体は安いものだとさえ思われました。したがって生命より大切とする根拠が示されれば、生命はいつでも心静かに、かつその場で捨てられました。

名誉は、自己の役割をまっとうに努めることにあるのだ。という稲造先生の指摘はとても新鮮でした。
目標は高く持ちつつも、分をわきまえて自分のやれることをしっかりと努め上げる。
これが名誉の始まりであり、最高の善行だと心得、決して富や知識を目標にすることなく、今後も精進していきたいと思います。

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