炎の陽明学~山田方谷伝~ を読んで1/3

山田方谷は、幕末期の儒家・陽明学者です。
農商の子から備中松山藩の元締役(財務大臣)にまで上り詰め、最終的には藩主より全権を任せられ、苦境にあった当時の藩政改革を見事に成し遂げた立志の人です。

内村鑑三著の代表的日本人にて上杉鷹山が取り上げられ、ケネディやクリントンが絶賛したことから、今では、藩政改革の成功者と言えば上杉鷹山が挙がるようになりました。

ケネディやクリントンが「一番尊敬する日本人の政治家は誰ですか?」の問いに上杉鷹山と答えなければ、上杉鷹山を多くの日本人が知ることはなかったように、山田方谷もまた知られざる改革者なのかもしれません。

実績で言えば、上杉鷹山の10倍以上のパフォーマンスだったと言われています。

どうしてこのように偉大な功績を残すことができたのか――

農商の子ではありましたが、曾祖父までは名字帯刀を許された豪族でした。
方谷の祖父、父は山田家をどうにか再興させようと、方谷の教育には全力を注いだようでした。当時、下層階級の人が出世をするには、剣と学問しかありません。

そのため、幼少の頃より高名な儒学者(丸川松陰)の下で学問に励みました。

ある日、師の丸川松陰を訪ねてきた客が、教室で学習する塾生の中に、あまりにも幼い方谷がまじっているを見て驚き、少しからかい気味に方谷に質問をした。

坊や、何のために学問するの。

客人を見上げた神童はきっぱりとした口調で「治国平天下」と答えた。
客人は腰が抜けるほど仰天し、絶句した。

という逸話が残っています。

お家の復興もさることながら、何のために学ぶのかをしっかりと捉えて学問をしていたことが伺えます。

順調に学問を重ね、神童として育っていった方谷に、苦難が訪れます。
14歳、15歳にてそれぞれ母、父を失ってしまいました。
長男だった方谷は、已む無く家業を継ぎ、毎日重労働の日々に学問は遠のきました。

商売は世俗にまみれ、毎日凡庸な人との接触、損か得かのやりとりは、悔恨の日々であったと記されています。

転機は21歳のときに訪れました。
方谷の名声を遅れながらに聞きつけた藩主に目をかけられ、奨学金を貰い再度学問に専念できるようになりました。

この後、京都や江戸へ遊学し、佐藤一斎の門下で学び、佐久間象山(勝海舟の師匠)などの同門と切磋琢磨して帰国後、備中松山藩の藩校有終館の学頭(校長に相当)に32歳で抜擢されました。

方谷は、兎に角、ひたすらに学びました。
日々の生活では遊びに耽ることもなく、驕ることもなく、精進しました。

そうやって、エネルギーを内に溜めに溜めたからこそ、与えられた機会にその力を発揮することが出来たのではないかと思います。

方谷を見習い、静かに虎視眈々と胆識、胆力というものを練り蓄えたいと思いました。


炎の陽明学―山田方谷伝

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